家事について

現在の日本において、全く家事をやらないという男性はほぼいないだろう。いたとしたら、もはや絶滅危惧種であり、相当珍しい生き物として見られるはずだ。

しかし、昭和の男は、今からでは信じられないかもしれないが、家事を全くやらなかった。うちの父を見てもそうだが、国民的アニメのサザエさんでも、波平が食器を洗ったり、洗濯をするシーンは見たことないだろうし、フネさんに全てを頼むのがいつものパターンだろう。

そこから考えてみると、今の40代や30代後半の世代はそういう親に育てられていながら、家族内では新しい男女分担のなかで生きる、狭間世代であると思っている。何故なら、50代以上は、それまでの分担のままいけた世代でこれからもそのまま続けていくだろうし、30代前半以下は、親の世代はまだ旧体制だったと思うが、教育現場ではすでに男が家事を分担するように教育されており、今の分担が自然な形として受け入れている世代である。

この狭間世代に生きる私としては、この家事分担が非常に苦痛ではあったが、コロナ禍の在宅ワークも手伝って、少しずつ分担を増やしていき、今では、ゴミ当番(回収、分別、ゴミ出し)、洗濯(洗濯機にかける、ベランダに干す、取り込む)、風呂掃除、食器洗いを担当するようになった。

ゴミ出しは、まず分別の方法とゴミ出しの日を覚えるところから始まった。ペットボトルはラベルを剥がして、中を洗う。牛乳パックはキレイに切って広げて、乾かしてから重ねる。燃えるゴミは市の指定の袋を買ってその中に入れて出す。不燃ゴミ、商品プラ、粗大ゴミなど、特殊なものはその度に確認が必要、、、とかなり大変な作業だと気がついた。今までアメリカやインドネシアに住んだが、ここまでゴミ出しに時間をかけている国はないだろうと確信している。北欧あたりはもしかしたらもっと時間かけているのかもしれないが。。。そして、他の家庭のゴミ出しにも興味が出てきて、ついつい見てしまうようになったが、99%以上の家庭がルールに沿って、キレイにゴミ出しをしている。このあたりを見ると、本当に日本はすごい国だと思う。段ボールもきちんと並べて、ペットボトルもキレイにしてある。プラスチックゴミもちゃんと分別して出している。ただ、不法投棄も多く、手放しでは称賛出来ないが。

次は、洗濯であるが、これはやっていくうちにはまっていく。洗濯機の作業は、まぁ、そこそこであるが、干す作業は面白い。まずは朝一のニュースで天気を確認。最近の朝番組は洗濯情報もやってくれているので、それを参考にどうするか作戦を決める。一日中晴れなら、普通に洗濯機を回し、全部干す。しかし、午後から雨となれば、厚手のものは洗わずに簡単に乾くものだけを洗い、干す。ただ、その後も天気を確認しながら取り込みのタイミングをみる。午後から晴れる場合は、洗濯機の時間をズラす。一日中雨なら、乾燥機の出番である。このように、天気を相手にするのはなかなか面白い。干す作業は、このように自然の力を借りて生活してる感じがして良い。最近はドラム式洗濯機で乾燥まで終わらせてしまうものがある。確かに便利だし、本当に時間がなければその方がいいが、干す作業にこそ、洗濯の醍醐味がある気がする。さらに、干す作業で面白いのは、干し方だ。まずは乾いた時の形キープのために延ばしながら干すというのは基本かもしれないが、日当たり、風当たり、そして、他の洗濯物からの影響を考えて戦略的に配置すること。ハンガーを使うか、洗濯バサミで干すか、そして場所や離隔距離も重要。晴天ならあまり気にしなくてもいいが、乾きが悪そうな天気の時には、この采配が勝負を決める。

風呂掃除は、まだ楽しみをあまり見出していないが、楽にキレイにする方法はないか、模索中。

最後に食器洗いだが、これはもう食洗機一択だと思っている。それまでは全て手洗いだったが、あまりに量が多いので手が荒れることや、とにかく時間がかかる、洗剤がどんどん消費はされる、そして時間がいくらあっても足りない。食器洗いとは食べたものだけではなく、調理器具も含まれるので、毎食毎食、すごい量になるが、食洗機があれば、大きな鍋やフライパン以外はたいてい洗えてしまうので、詰め込んでボタンを押すだけで、一時間後には、キレイになって出てくる。また、そこから直接取り出して使えば、食器をしまう手間も省ける。これは本当に便利である。


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同じく便利グッズと言えば、お掃除ロボ。

確かに便利でよく使うが、彼が仕事をするためには、床に落ちているものを拾ったり、仕事しやすい空間を整えてあげないといけない。そのお膳立てに意外と時間がかかり、そこまでやったらあとは自分でやってもかわらないんじゃない?というところまでいくので、すごくオススメというわけでもないが、我が家では全く使っていないスペースのホコリ取りで重宝している。


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また、なかなか手が出せないのが、料理と取り込んだ洗濯物を畳んでしまう作業。あと、普通の家の掃除。もし、家事の分別に変化が出てまた追記出来そうなら将来書いてみたいと思うが、今のところはここまでにする。

 

 

JCBについて

とりあえず、クレジットカードはJCBを使いませんか?という提案だ。

 

まず、クレジットカードと聞くと何を想像するかだが、航空会社のカード、イオンカード、電気量販店カード、銀行系カード、楽天カードなどなど、色んなところからクレジットカードが発行されている。ただ、大事なのは実際のカードブランドである。

それらは、国際ブランドと言われる5つのブランドから大抵は選ぶことになる。ビザ、マスター、アメックス、ダイナースクラブ、そして我らがJCBである。(中国のunion payもあるが、なかなか選択肢にあがってこないかもしれないので、ここでは割愛)国際的に使える五大ブランドのうち4つは全て米国発祥であるが、唯一JCBだけが日本ブランドである。

これはどういうことかというと、イギリスやドイツ、フランスなども国際ブランドカードを持っておらず、米国についで日本が持っているというとても希有な存在なのだ。

さらに、ご存知の通り、クレジットカードの手数料は利用者は支払わないが、使われた店側がカード会社に払う仕組みになっている。つまり、世界中でクレジットカードが使われると、どんどんアメリカにお金が流れることになる。さらに、お金だけならまだしも、購買情報もVISAやMastercardを使えば、全部アメリカに流れることになる。こういうことを嫌ってロシアではJCBが多く使われている。

よって、世界的にも珍しい国際ブランドのクレジットカードを持つ国の者として、自国のJCBを選ぼうということと、さらにJCBが世界中で広く使われるようになれば、手数料がどんどん日本に入るようになり、国を豊かにすることが出来る。そして、何より購買情報という大切なデータの流出も防げる。

ただ、海外によく行く人にはJCBだけでは不便なので、VISAかMastercardのどちらかは念の為持っておいた方がいいだろうが、日本にいる間はJCBだけでもほぼ不便なことはないだろう。世界で最も使われているのは、2020年もVISAであり、金額ベースでJCBの50倍近い。また、以下のデータをみると、union payがものすごくシェアを広げてきていることがわかる。JCBもそれに倣ってと言いたいところだが、他のカードに比べて、手数料が高いと言われるJCBを嫌ってJCBを扱わない店舗もあったりで、なかなか伸び悩んでいる。

https://www.statista.com/statistics/261327/number-of-per-card-credit-card-transactions-worldwide-by-brand-as-of-2011/

 

大事なことは何かと言えば、VISAやMastercard使うにしても、このような状況であることを理解して使うことである。そして、ゆくゆくは、日本のためにJCBを使っていくことである。

 

アメリカの思い出について

以前も何回かアメリカについては書いてきたが、とにかく5年間で出張やら旅行やらで色々と飛び回った。昨日、大リーグの帽子コレクションを載せたところで、もう一つのコレクションであるマグネットを載せてみたいと思った。

これも、もちろんその場を訪れた際に買ったものであるが、ただこちらは帽子とは違い、行った場所のものを必ず買ったというわけではないし、そもそも場所によってはマグネットが売ってないこともあるので、ここに写っているマグネットの場所以外でも行った場所はたくさんある。それは最後に地図を載せるので見てもらいたい。

よって、今回はこのコレクションについて紹介してみたい。


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ちょこちょこ見えるのが、hall of fameの文字だが、これは殿堂という意味で、アメリカにはいくつもの殿堂がある。集めたマグネットには、トロント(カナダだが)にあるホッケーの殿堂、オハイオ州クリーブランドにあるロックンロールの殿堂、ノースカロライナ州シャーロットにあるナスカーの殿堂、そしてニューヨーク州オルバニーにある野球の殿堂がある。特に面白かったのが、野球の殿堂。

ここには、イチロー特集があり、日本で報道されている通り、アメリカでも伝説的プレイヤーとして認知されているのが分かる。松井秀喜も少しあったが、あとは日本人メジャーリーガーの展示はなかったが、王貞治はしっかりと展示があった。日本の野球での記録などアメリカ人からしたら興味ないものと思っていたので、とても驚いた。

次に目立つのが、白のroute66だろう。これは、日本で言うところの東海道のようなものでアメリカで最も有名かつ愛された古道である。今はもう使われていない部分も多いが、未だに多くの人を魅了している。これはカルフォルニア州ロサンゼルスからイリノイ州シカゴまで続く、アメリカ横断に近い道路で、多くの映画などの舞台にもなってきた。私も旧route66の道をたくさん運転したが、特にアリゾナ州ニューメキシコ州のあたりは古き良きアメリカのイメージそのままで、感動したのを覚えている。その後、アメリカでハイウェイ改革が起こり、大きなハイウェイで東西に伸びるものは、南から10,20,30,....と名前をつけていき、南北に伸びるハイウェイは東から、5,15,25,....と名前が付けられたため、前回の出口同様とても分かりやすくなったが、同時にこのroute66のような豪快に東西南北を横断するようなハイウェイはなくなった。

そして、次に見えるのが、リンカーンの顔だろうか。これは、南北戦争博物館で買ったものであるが、その他にも博物館系列だと、アトランタのCNN、アイオア州のチェコスロバキア博物館、シアトルの飛行機博物館、アイダホ州のポテト博物館、ハーレーダビッドソン博物館、そして、ダラスのシックスフロア博物館がある。シックスフロア博物館とは、かの有名なケネディ暗殺の舞台とされている教科書ビルの六階にある博物館で、当時の様子や様々な検証をフェアに紹介している。ある国なら、政府の都合の良いような事実だけを展示しそうなものだが、ここでは本当に色んなことが説明されていて、面白い。特に、両親をここに連れて来れたことは自分の人生の中の数少ない親孝行でもある。両親の世代からすれば、テレビが普及し始めた頃に起こった最初の大事件はケネディ暗殺で、年齢的にも青春真っ只中の最も印象に残りやすい時期で、さらに当時のアメリカといえば、とても市民が行けるような場所ではない憧れの国でもあったので、特に父は、まさかここに来れるとは思っていなかったと、とても感動してくれた。

あとは、自然公園系列のものも多く、ナイアガラの滝、グランドキャニオン、デラウェア州のビーチ、オレゴン州の滝、ニューメキシコ州の砂漠、テネシー州の山、ユタ州の島(ソルトレイクにある)、ミズーリ州の湖など、とりあえずアメリカは様々な気候や地形があり、ここだけで地球上の気候が全部あるのではないか?と思ってしまうほどだ。だから、アメリカ人は海外旅行に興味がない、と笑い話をしていた人もいた。中でもYellowstoneは本当に素晴らしいし、その南にあるTeton national parkも非常にキレイだった。

その他は、ほとんど街のマグネットである。カナダのプロジェクトで長いことカナダにもいたので、トロント、オタワ、モントリオールバンクーバーなどがあるが、やはりモントリオールが素晴らしかった。ここは、住民のほとんどがフランス語で話すため、街はフランス風で、トロントとは違う雰囲気であった。また、オリンピック関係の建物や当時の記念品なども見れるし、マルシェで食べた食べ物はどれもとても美味しかった。

また、街で言えば何度もヒューストンから車で行ったルイジアナ州ニューオリンズは、マルディグラというお祭りの時は秩序も法もないような大騒ぎをする。マサチューセッツ州ボストンは寒かったが、キレイな街で牡蠣が美味しかった。カルフォルニア州は日本で最も有名な州だと思うが、ハリウッド、ディズニーランド、ロングビーチ、ゴールデンゲートブリッジなどなど。一番好きな街はどこだったかと聞かれると、私はミズーリ州のブランソンだと答えるかもしれない。ここは、日本ではほとんど知られていないが、アメリカでは旅行客の数が全米3位と人気スポットらしい。私も数回行ったのだが、ものすごい数の観光バスが毎回止まり、何があるのかと言えば、ブロードショーだった。街の至る所に劇場があり、どこも毎晩満席。私も観たが、とても面白かった。歌あり、踊りあり、演劇ありで、本当に観衆を飽きさせない。しかし、街自体はそんなに派手ではなく、落ち着いていて、ゆったりとした時が流れる。昼間はゆっくり散歩でもして、夜は劇場に行くというとても優雅な時間を過ごせる街だ。

とりあえず、本当に色んな場所に行き、色んなことに感動したり、感銘を受けたり、楽しんだり、いい思い出がこのマグネットには詰まっている。

 

最後に、アメリカで行った場所に赤シールを貼った地図を載せる。


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MLBについて

野茂英雄が大リーグに挑戦してから、松井秀喜イチロー上原浩治青木宣親ダルビッシュ有田中将大などなど、数多くの超一流プロ野球選手が大リーグで活躍し、今は連日の大谷翔平ブームで大リーグのニュースを見ない日はないくらい、日本人にとって大リーグは身近な存在になった。

野茂英雄はすごかったなぁと、連日の日本人選手の活躍を観ていて思う。あの時は、彼の渡米に対して、メジャーリーグ挑戦については否定的な意見が多かった。もちろん、監督との確執、契約更新の話などもあったとは思うが、"野茂!頑張って行ってこい!"という声よりは、裏切っただの、天狗だの、そんな雑音が多かったと記憶してる。だからきっと、日本に戻るという選択肢はなく、完全に退路を断った状態で渡米したのだろう。

そんな日本人メジャーリーガーの歴史を作ってくれた野茂英雄のお陰で、私もメジャーリーグに興味を持っていたため、私が米国にいた際にも、メジャーリーグをよく観戦していた。その事は以前のブログにも書いたことだが、その辺りでも触れたメジャーリーグの全チームの帽子を買った件だが、実際に持っているのか?と疑っている人もいると思うので、改めて帽子を並べてみたので、写真を載せることにした。


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これで、30チーム分ある。

帽子の置き方は、なんとなくそのチームの本拠地を模擬しているが、シンシナティクリーブランドのところが上手く置けなかったので、ちょっとおかしいが、あとはだいたい置けた。ヒューストン・アストロズからトロント・ブルージェイズまでは結構距離がある。

また、帽子の種類はあえて色んな種類を買った。みんな同じ種類(メーカーや材質)で揃えることもできたが、それだと面白くないなと思い、バラバラにした。野茂英雄がいたドジャースの帽子が所謂一般的なスタイルで、これならこの方式で全部揃えることも出来たが、どこか味気ない。上原浩治がいたレッドソックスのようにマスコットが出てくるのは愛らしくていいが、試合とかでは使われないので、どのチームのものかわからなくなることもある。青木宣親がいたロイヤルズの帽子はラッパースタイルのものでカッコイイが、野球帽っぽさはない。松井稼頭央がいたコロラド・ロッキーズの布っぽい帽子は、持ち運びやすいしかぶりやすいが、形が崩れやすくコレクションにはあまり向かない。とまぁ、色々良い面、悪い面があるので、色々な種類のものをバラバラで買った。個人的にはやはり住んでいたこともあり、青木宣親もいたヒューストンアストロズ

またいつか、大リーグを観戦してみたいと思っている。

帽子の保管で、カビには、気をつけたい。

仕事は暇つぶしについて part4

さて、ここまで(par1-part3)で私の言いたかったことを書いてみた。 ここからは、 自分がこう考えるに至った自分の経緯について書いてみたい。 自分はある意味、運もあったと思うが、 とても満足した仕事生活を送れていると思っている。 辛いことも多い、というか辛いことの方が仕事上は多いが、 考え方を変えてみることで、それも大きく変わっていった。

 

まず、私の人生はというと、自己紹介でも書いたように、 旧ソ連時代のモスクワで生を授かった。 その時の記憶は全くないが、その後日本に行き、 またロシアに戻り、小学校高学年から中学卒業までをモスクワ、 さらに高校の二年間をドイツで生活をした。また、学校では児童会長、生徒会長を務めたり、 何かを企画運営したりすることが好きだった。さらに、 勉強面では理系に進み、大学では物理を学んだ。そして、 海外経験のなかから、日本の素晴らしさ、 日本人として生まれてきたことの幸運に感謝した。要するに、 私自身の特性を考えたところ、海外で仕事をすること、 日本という国に貢献すること、 多くの人の中で何かプロジェクトのようなものに携わることなどが自分の経験から考えた特性だと考えた。

そして、選んだ企業(採用された企業)は、 主に電力関係の機器の販売と納入のプロジェクトに携わることの出来る会社だった。まず、この会社は日本の企業であり、 日本の技術を世界に売り、日本に貢献できるという意味で、 自分の性分にとても合っていた。また、 技術者としての採用だったので、 大学時代に学んだ物理という学問を生かせる環境であったことも志望動機の一つであった。ここで、 自分の能力が実際どれくらいなものだったのか、 全くわからなかったので、ここで書いていたこととは裏腹に実は‘ 性分に合っている’ということだけで就職先を決めていた。 しかし、運よく、海外の仕事を任されるようになり、5年間は米国の支社に駐在することになり、米国で家族と暮らした。

この仕事に出会わなければ、 当然米国で暮らすこともなかっただろうし、 普通なら出会えなかっただろう人々にもたくさん出会えたし、 入れないだろう場所にもたくさん入れた。 給料は決して高いわけではなく、 絵に描いたような贅沢はできないが、 そのなかで生活するというものでも満足している。ただ、 決して仕事が楽というわけではなく、苦労や悩み事も多い。 夜中までの仕事や休日に出勤することもあり、 また仲間や顧客からのプレッシャーもあり、精神的、 体力的にも辛い状況は人並みには経験してきているつもりである。 しかし、そんななかでふと暇つぶしという言葉を思いついた。 仕事の辛さから、 生きていたって無駄なんだと思って死を選ぶことだってできたかもしれないが、自然界の教科書から、 ただ生きることが使命であることを学び、そして、 生きている時間は暇であることに気が付き、 人間社会では助け合うことが必要で、それが仕事になり、 助け合いの結果がお金であり、それが生活を築く糧になる。 そして、ただ生きないといけない人生の暇を仕事で解消し、 そのなかで運よく、家族を築き、 かけがえのないものまで手に入れることができた。

だから、 私はここで過労死や仕事からのプレッシャーで死を選んでしまう人 たちに対し、この文章をささげたいと思った。毎週月曜日( 早い人は日曜日の午後) に吐き気を誘発する仕事という魔物に追われている感覚があるのであれば、まずはそれに感謝する。自分の居場所をありがとう、 お金をくれてありがとう、時間を忘れさせてくれてありがとう。 最低限、この3つかもしれないが、さらに運のいい人は、 家族を養ってくれてありがとう、素晴らしい成功をありがとう、 名声をあたえてくれてありがとう、贅沢な生活をありがとう、 新しい自分の能力の発見にありがとう、など、 副産物も出てくるのだろう。

何か一つの職業、または会社にとらわれる必要はなく、 どんどん新しい仕事に挑戦していけばいいが、その前にまず、 今の仕事に感謝してみてはどうだろうかと思う。 少し肩の荷が下りるのではないだろうか?最初にも書いたが、 それが私の本望である。

仕事で暇つぶししている間に色々なものが手に入る。仕事は有り難いと思えることが大事である。より辛ければ辛いほど、暇は潰れる。有り難い、有り難い。

 

仕事は暇つぶしについて part3

まず始めに、仕事をしていると、 自分の居場所というものが確立される。ここで言う居場所とは、 物理的な居場所と精神的な居場所の二つである。 まずはわかりやすい物理的な居場所について書いてみたい。 例えば、東京には数多くの建物があり、それらは例えば、 どこかの会社の事務所や警察署、国会議事堂、野球場、 皇居と書き続けていけばそれだけで文章が終わってしまうくらいたくさんあるが、 そのなかで自分が入れる場所というのは限られている。 どこかの会社の事務所だって、IDカードがないと、 またはそこの誰かに許されないと入れない。 野球場は観客席ならお金を払えば入れるが、 ピッチャーマウンドに立つにはレギュラーの座を得てからしかできない。つまり、そういう場所に入れるのが多くの場合、 仕事をしている人だけなのである。国会議事堂であれば、 国会議員になれば入れるし、 または国会議事堂の椅子を手掛ける職人だったり、 清掃員だったり、そういう仕事を持っていると、中に入れる。 そこに居場所が用意されるのだ。仕事をしていると、 そういう体験は、大したことのないこと、 または当然のことにように思えるが、 ふと仕事がなくなったときに今まで当たり前のように入っていた場所に入れなくなったりすると、 そういうことを実感するのかもしれない。 よく戦力外通告を受けたプロ野球選手なんかが、 もう二度とあのマウンドに立てないんだなんて悲しそうに言うが、 まさにそういう心境なのだろう。サラリーマンでも、 辞めた会社の事務所には二度と入れない。 今まで何度も行っていた出張先でさえ、もう行けないのである。よって、仕事がなければいけない場所に行けることになったり、 入れない部屋に入れたり、そういう機会が与えられることは、 まずとても面白い。レストランの調理場には普通入れないが、 皿洗いの仕事をすれば入れる。アフリカの辺境の地だったり、 国家機密の場所だったり、最先端の技術、工事現場、 どこでも仕事であれば、みんな入れてくれる。 仕事に夢中になっていると、そういう場所に入れていることに、 何の有難さなんか感じない、 むしろ入りたくもない場所にもなるのだが、 物理的に居場所があるということ、 行く場所があるということは非常に有難いことなのであり、普段入れない場所に入れるのはとてもいい経験になる。 例えそれが、自宅であったとしても、仕事のために家にいるのと、 ただ家にいるのとでは、 自分の精神状態や他人の目からも全く違ったものになる。

次に、精神的な居場所があるということである。 それは人とのつながりである。どんな仕事をするにしても、 人との関わりは避けられない。関わる人の数こそ、 仕事によって違えど、人にお願いされ、人にお願いし、 助け合いの中で、人は仕事をしている。その助け合い、 支え合いこそ、醍醐味なのである。 当然それは他人から感謝もされるし、尊敬されたり、慕われたり、 認められるということがある。逆に怒られたり、 裏切られたりすることもあるが、 それもそれで仕事の醍醐味である。ここで、‘いや、 そんな仕打ちを受けることは醍醐味とは言えない、 ただ辛いだけで場合によっては死を選ぶことだってあるので、 やはり仕事は辛い’という反論もあると思う。しかし、 僕がここで書いているのは仕事が辛くないということではなく、 暇つぶしであると言っているのである。よって、 頼られることはもちろん幸せで嬉しいことであるが、 それと同時に怒られることも、 暇つぶしの観点からすれば同じように暇を潰している瞬間なのである。まず、このように人との関わりを持つこと、 その関わり自体が精神的な居場所である。そして、 その関わりから生まれる一喜一憂こそ大事であり、 仕事が精神的な居場所が与えられていることの証明になる。 月並みな言い方をすれば、楽しい時間は辛い時間によって、 より輝きを増すわけであり、辛いことは楽しいことの前兆である。 そして、いくら物理的な居場所を与えられても、 このような精神的な居場所(人との関わり)がなければ、 やはり暇つぶしとしては片手落ちになる。辛さも醍醐味として、 暇つぶしの観点からは重要なファクターであることを強調しておき たい。また、人との関わりについて、もう少し詳しく書きたいが、 仕事を通じて出会える人というのは、 仕事がない状態では出会えない人にも会わせてくれる。まず、 おおきなことから言えば、 自分が大企業の社長になれば総理大臣に会う機会もあるかもしれないし、医者になれば大女優の診察をするかもしれない。 俳優になれば、大物ロックスターと会えたり、 仕事は交友関係も大きく変える。 みんな仕事だから会ってくれるという人ばかりなのである。

このように、物理的、または精神的な居場所があること、これは暇つぶしには最適なのである。

 

次に、仕事をしていると、給料が発生する。 多くの人は仕事を給料(お金) のためにやっていると思っている人がいる。 その人はお金の本質をわかっていないのかもしれない。お金とは、 あればあるだけいいものではない。お金とは、 たまたまお金を持っているから使うものであって、 お金がなければ使わなければいいという存在なのである。 この話は貨幣制度が生まれて、 もともと物々交換をしていた頃からの話に遡る必要があるので、 詳しくは書かないが、簡単に書けば、 お金はなければ使わなければいいものであり、 本来必要なものではないのだ。つまり、 お金のために働くという姿勢は間違っていて、 そういう動機で働くからより辛くなるのである。 お金を稼ぐことが義務になってしまうと、 それに紐づいて仕事も義務になる。そして、 人間は義務という言葉に弱い。働いてもいいよ、 と言われれば働きたくもなるが、 働かないとだめだと言われると急に辛くなる。つまり、 仕事が辛いと悩む人の多くは、お金が絶対必要→ 仕事をしないとお金がない→仕事は義務→ その義務感のなかで嫌なことが発生→辛いけど、逃れられない、 というものではないだろうか?まず、基本に立ち戻り、 こう考えてみることにする。まず仕事は暇つぶしのためであり、 お金のためではない。ただ、世の中は助け合いの世の中で、 仕事は自分の能力を生かし、誰かを助けるためのものであるから、 まず助けてほしい人を探す。これが就職活動であり、 起業活動でもあり、仕事を見つけるということである。そして、 助けてほしい人はたいてい、それに対価を払うことにしているが、 それがお金であることがほとんどだが、お金ではないこともある。 そして、 人生とはその自分の能力と対価のバランスで得たもののなかで暮らすというシンプルなものである。つまり、 より多く対価を求め無理する必要もなく( つまりお金は必要以上に持つ必要がないため)、 逆に自分の能力を安売りし、 必要な対価をもらえないことを続ける必要もない。 お金に対する考え方と、 自分の能力と対価についての考え方を変えることで、 仕事と人生は充実する。お金のための仕事ではなく、 暇つぶしのための仕事であり、それによって得られる対価、 お金のなかで暮らすことを考えるというのが本来のあり方であるように思う。暮らし方に工夫をすれば、 お金を大量にもっている必要はないし、自分の能力を吟味し、 それを必要としている人を探せば、対価はそれなりに得られる。 どうも日本人の不得意分野は、横並び教育の弊害かもしれないが、 自分の能力の見極めであるように思う。 そしていつの間にか仕事というのは、 奴隷のような働き方をすることであることにように錯覚する。 今は、インターネットも発達し、 世界にもチャンスを見出せる世の中なので、仕事、能力、 対価の関係について見直すいい機会かもしれない。ただ一点だけ、 今回の主旨とは少し違うかもしれないが、 自分の能力を高めることや市場が何を求めているのか、 という部分の考察、調査、 そしてそれを形にしていくことの努力は必要に思う。たとえば、 自分は歌が上手くても、 自分よりうまい人がたくさんいれば歌う必要はないだろうし、 世の中にイノシシを狩る人がたくさんいて、 魚を釣る人が誰もいなければいくらイノシシを狩るのが自分のなかで一番得意な仕事でも、魚を釣るべきだろうし、このあたりを見誤り、 いつまでもイノシシを狩っているようでは、能力の安売りになる。 このあたりの簡単な原理ですら、 複雑化した現代では見えなくなっているように思う。居場所をもらいながら、お金ももらい、生活の基盤ができるので、単なる浪費にならない仕事は、暇つぶしには最適である。

 

最後に、仕事には必ず目標があるということである。 経営をやっている人であれば、売り上げ目標とか利益の目標、 開発をしている人であれば、製品の開発の日限や性能の達成、 野球選手ならホームランの数や勝利の数、などとりあえず、 どの仕事においても目標があり、 それに向かって日々努力をしている。 これも仕事のすごいところであり、一日たりとも、 仕事に出かけている以上、目標は与えられ続ける。つまり、 いくら物理的、精神的な居場所があって、 それに対し対価がもらえても、目標がなければ、退屈である。 ある種の目標、またはノルマのようなものがあると、 それに向かって、仕事をすればいいので、 とても暇つぶしには適している。なぜなら、 それに向かって懸命に働くことで、時間を忘れられるからである。 むしろ、 目標によっては時間が足りないなどという嬉しい悲鳴も上がるくら いである。すると今度は、‘ そのようなノルマに押しつぶされそうになり、精神的に辛く、 とても嬉しいなどとは言えない’ などという反論もあるかしれない。しかし、 その原因は以下の二つのどちらである。一つ目は、 その仕事が自分の能力に合っていない、 または能力が足りていない、或いは過剰な要求になっている。 二つ目は、そもそもそれが普通の状態であり、 自分だけが辛いと思っているというものである。 このどちらにしても、上記のようにまずは、仕事、能力、 対価の関係を他人の例や別会社の例などを参考にし、比べてみることだ。前者であれば、その仕事を辞めればいいし、 後者であれば耐えるか、もし耐えられなければ、 仕事自体ができないということになるので、 他の暇つぶしを探すしかない。 仕事以外の暇つぶしは本当になかなか見つからないと思うが。

目標を追っているうちにどんどん時間が過ぎていくので、やはり仕事は暇つぶしには最適である。

 

こう考えてみると、仕事というものの素晴らしさの一端がわかる。 まず、仕事がなかったらやりたいと思うことのほぼ全てが、 仕事ほど長く続けられるものではない。平均的にだいたい20歳か ら仕事を始め、60歳で辞めるとすれば40年間は暇を持て余すこ とはない。しかし、仕事以外で40年間埋めろと言われれば、 なかなか至難の業である。例えばそれが、 一週間であったとしても、それは困難であり、 仕事以上に自分を突き動かす何かに出会う人は少ない。そして、 それが一ヶ月、一年となれば、廃人のようになっていき、 十年間も仕事なし状態を続けられる人はほとんどいないであろう。しかし、 仕事があればどうだろうか?大半の人が四十年間何かしらの仕事をし、 続けている。仕事のすごいところは、仕事をしている時間は、 40年間ほぼ一日たりとも、目標を与えられない日がない。 毎日毎日、問題があり、解決しなければならないことがある。 これは本当に不思議なのだが、全く人を飽きさせないというか、 休ませない。これに疲れて、 肉体的にまたは精神的に病んでしまう人もいるので、 あくまでも程度問題だが、思うことはやはり、 こんな長い間人々に目標を与え続け、挑戦させ、 時間を忘れさせるものは仕事以外ないのではないだろうか? 仕事をやっていると、先ほども書いたように、 どんどん問題が見つかる、出てくる、与えられる。そして、 単純に乗り越えられるものもあるが、多くの場合、 その目標というのは実力よりも少し高いものが多く、 時に必死でやることで乗り越えたり、 時には何か新しい方法を考案して乗り越えたり、誰かに頼んだり、 そもそも目標を変えたりもしながら、 とりあえず解決していくことが仕事である。そして、 重要な点はどこかと言えば、 時間を忘れさせてくれるという点である。 これこそ究極の暇つぶしである。 最も優秀な暇つぶしに求められているものは時間を忘れさせるとい う能力であり、仕事のなかでは一年、 二年という単位がいとも簡単に過ぎていく。 それは年を取ったせいだとも言えるかもしれないが、 もしそう思ったら、思い切って例えば一ヶ月でも仕事を休んで、“ 暇な”時間を作ってみるといい。一日というのは意外に長い。 一分とか五分という単位でさえ、何もしなければ長い。

 

 

仕事は暇つぶしについて part2

まだ、 暇について語っていないので、それを説明したい。 暇とはなんだろうか?例えば、約束の時間が3時だったのに、 突然4時にリスケされ、それによって1時間、 時間が空いてしまったとか、 飛行機に乗っている間の5時間は特に何もできないので暇だとか、 何かの目的やくださいかな目標があって、動いている時間以外の時間、つまり、 何もやることのない時間、それが暇なのであると私は思う。 これも例によって、 辞書で定義された意味ではないかもしれないが、 私がここまで日本語を使ってきた中で、 こういうニュアンスで暇という言葉を使って来たので、 これを暇だとここでは定義したい。要するに、 目標を失っている時間である。そう考えてみると、 生まれた時から死ぬまで何か目標がある人はいるのだろうか? と問うてみる。生まれてきた意味とか、生きる目標だと、 そんなものがこの世に存在するのであれば別だが、 全ての生物に生まれてき意味など与えられておらず、 人間だけが意味を持つのも不自然であり、 基本的に生きる意味などないと私は思う。 生きる意味がないのであれば、死ねばいいと言うかもしれないが、 それはそれでいい。ただ、もう少し冷静に考えるために、 例えば動物に目を向けてみる。ライオンの生きる意味、 微生物の生きる意味、なんて考えてみると、 ライオンは残酷にシマウマの子供を食べてしまう。 そんなライオンさえいなければ生きられた命があったはずなのに、 とライオンを残酷な生物だと思っても、彼らにより( もちろんライオンだけではないが)シマウマの数は抑制され、 限られた餌が群れ全体に行き渡っている考え方もある。つまり、 ライオンはいない方が有難いと思われることもあれば、 必要だという面もあり、つまるところ、 どちらも正しいのだと思う。つまり、特に生きる意味もないし、 だからと言って逆にあえて絶滅する、つまり死ぬ必要もない。 ありのままで生きていればそれでいいのだ。 逆にとても小さい微生物なんかいてもいなくても変わらないと思っ ても、彼らが枯葉を分解し、養分にすることは有名であり、 自然界を支えている。つまり、彼らが必死に、 ありのままを生きていることだけで、誰か(何か) のためになっており、 生きていることだけでその価値を見出しているとも言えるので、 あえて生きる意味を教えてほしいと言われれば、 他の動物の例から考えると、人間においてもそれは‘ ただ生きていること’だと私は思う。 ただ生きることに一生懸命になること、 それこそが生きる意味であり、 それは言葉以上にとても壮大な目標であると思う。よって、 結局生きる意味はあるのでは?と疑問を呈する人もいるだろうが、 ここで言いたいことは、生きる意味とは、 生きて何かを達成する使命があるというわけではなく、 ただ生きていることだけでいいのだということである。

では、ただ生きるとしたときに、もし仕事しなくても生活できるのであれば、まずは遊びたいとか、 何かの趣味に没頭したいとか、どこかに旅行へいきたい、 など多くの人が色々と言い出すことは想像に難くない。では、 具体的に何がしたいのか、考えてみてほしい。例えば、よく天国、 または極楽浄土なんて言葉で表現されるような世界を想像してみる と、そこでは高級な食事を食べたり、美女に囲まれて生活したり、 大きなキラキラした宮殿に住んで…、なんて生活を思い描いたり、 また別の視点で、今の生活のなかで抑制されているものを思いきりやりた いと考え、ゲームをやり続けたり、旅行に出かけたり、本や漫画、 映画などにふけったり、ただただのんびり寝ていたり、 そんなことをしていたいなんて思うのかもしれない。 仕事さえなければ、ほぼ全てが自由な時間があって、 そういうことに自由に時間を使えて、 こんな幸せなことはないなんて思うのかもしれない。

しかし、しつこいが、ここでもう一歩踏み込んで考えてみよう。 食事だって、普通、一日三食以上はなかなか食べられない。 一回で食べられる量もほぼ決まっており、 時間なんて一時間もあれば十分過ぎるほど、 ゆっくりしている食事とも言えるので、せいぜい一日三時間、 多くて四時間くらいなものだ。美女と暮らすと言っても、 毎日会っていれば美女だって見飽きる、 心が通じなければそこには興奮も覚えないだろう。ゲームだって、 それをずっと一人でやっていても発展性がないし、友達とやろうにも、 相手だってずっと付き合ってくれるわけでもない。例え24時間連続でプレーできたって、それも続かないだろうし、旅行だって、 旅人や冒険家という仕事にしている人でなければ、一年も、 二年も旅行に出かけたいということはほとんどないだろう。 その他のことだって、 やはり仕事以上に時間をかけられるものはほとんどないのだ。

そして、人生に意味や目標などないと書いてみたが、 そういう観点からすれば、例えば人の寿命を70年とすると、この 70年間、人間は暇なのである。つまり、この70年という暇な時間を生きるためだけに使うというのが人生なのである。そして、 太古の時代より、例えば狩猟と採集、 畜産と農業など人々は生きるために仕事をしてきた。ただ、 その時代は本当に生きること(着ること、食べること、 食べさせること、住むこと、など)と仕事が直結しており、 みんなが生きるために自分が何かをし、 助け合いながら生きることに疑問はなかったのだと思う。つまり、人間社会において、仕事というのは、 誰かの生きるという行為を助けていることなのである。しかし、 時代が高度化し、仕事と生きることがかけ離れていき、唯一、 お金という媒体のみで生きることと仕事が繋がっている現代におい ては、このことが見えにくくなっている。

 

では、ここからは実際に仕事がどのように、 自分の暇な時間を潰してくれているのか、考えてみたい。