転勤族について

理想の父親の話を前回書いたが、私の父は転勤族であったため、私は小さい時から色々と引越ししていた。

簡単に経歴をまとめると、

生誕〜4歳 ソビエト連邦共和国

4歳〜11歳 千葉県

11歳〜15歳 ロシア連邦

15歳〜17歳 ドイツ

17歳〜28歳 東京都、神奈川県

28歳〜33歳 アメリカ合衆国

33歳〜現在 インドネシア(長期出張ベース)

最後のインドネシアは途中コロナウイルスの影響で約一年間は日本に帰国していたが、それまでは年の2/3程度はインドネシアで働き、残りを日本という感じの生活であった。そして、今もなお、コロナ禍のインドネシアにいる。

 

このように、色んな場所を転々してきた人生なので、地元は?と聞かれると、回答に窮してしまう。先祖代々からのお墓があるとか、幼馴染みがたくさんいるとか、そんな場所はなく、一番長く住んだ街はロシアのモスクワとなるが、地元というのはなんか違う気がする。第二の祖国であることは間違いないが。

 

いつかそれぞれの国がどんな国だったか、どんな体験をしたのかなどについてもまとめたいとは思うが、ここでは総じて、このような転勤族体験が自分にどんな影響を与えたのか、紹介をしたいと思う。

まず真っ先に思い浮かぶのが、私は人見知りというのを全くしないことに気がついたことだ。これは、大学生あたりの頃に、周りが人見知りするとかしないとかの話をしている時に、それがどんな感情なのか全く理解出来なかったことで気がついた。人見知りとは、初めて会う人だと緊張したり、上手く話せなかったりすることであるとすると、社会人になった今でもほとんどそういう状態になったことがない。むしろ、知らない人に会うのはとても楽しみで、どんな人であっても、例えば、タクシー運転手であっても、どんな人かな?と興味を持ってしまう。なので、新しい場所や新しい組織に入り込むのは、とても好きである。もちろん、最初からこういう状態ではなく、いくつもの"はじめまして"を経験してきたからなのだと思うし、また、運良く今までいい環境に身を置けてきたからなのだと思う。

次に、一度仲良くなった友達などは、なるべく長く付き合い続けたいという思いが強い。私の場合、土地には確かに根付いてないが、私の友達こそが、私の歴史そのものであるという感覚がある。それは、小学校、中学校、高校、大学、アルバイトや社会人。いつの時も、多くの友達に支えられ、励まされ、なんてことよりも、ずっとふざけて笑ってきた歴史がある。そんな友達が私の転々としてきた道の証人でもあるし、むしろ地元、なのかもしれない。

だから、社会人になって、みんな家族を持って、昔は偏差値の話をしていた友達と血圧の話をするようになったり、互いの恋人の話をしていた友達と互いの子どもの話をするようになったり、コーラを一気飲みしてた友達とじっくり日本酒を飲むようになったり、バカ話してた友達と何十年経った今でも同じバカ話をしていたり。だから、地元がない分、友達とはずっと仲良く関係を続けていきたいと思うのだ。

最後に、色んな人を受け入れられるようになったことだと思っている。それは友達というのではなく、そこまで深い関係にはならずとも、決して拒絶せず、上手く付き合えるコツを掴んだと思っている。それは、正しいを定義しないということだった。

一例を挙げると、昔ロシア人に、どうして冬にアイスクリームを食べるのか?と聞いたとこら、夏に食べたら溶けちゃうだろ、と言われたことがある。−10℃の極寒のなか、どうしてアイスが食べられるのか全く理解出来なかったが、その言葉は20年以上経った今でもよく覚えている。

このように、場所によって、時代によって、もちろん人によって、正しさは違う。そんな違う正しさを、色んな経験や色んな人と出会ってきたことで自分の受け入れの幅は広がってきたと思っている。人は人と話した時に心を開くかどうかは、共感、または共鳴のような感覚が必要であり、それは相手が自分の正しさのようなものを受け入れてくれた時に感じるものなのだと思う。私はそれが人よりも広くなっているような気がするので、多くの人を受け入れられるのだと思っている。これも、全て、色んなところに飛び込んできた経験の賜物なのだと思う。

転勤族の家族に生まれて、失ってきたものも当然多いと思う。しかし、それによって得たものも多いこれまでの人生だったと思う。

正しさを定義しない、正義は存在しない、そんなことが今、自分のモットーになっている。