外交について

防衛とセットで考えなくてはならないのが、外交政策であると思う。外交というのは、まさに各国それぞれ考え方が異なるものであり、グローバルスタンダードで考えるものではないと思っている。

例えば、複雑に国境を接するヨーロッパ諸国や中東諸国、そして中国などと、日本のように島国で隣国と一定の距離を置いている国とでは緊張感が違う。よって、日本の場合、外交政策によってどこかの国と強い同盟を組んでどこかを牽制する必要もなければ、逆にあまり不用意に対立構造を作る必要もない、言わば付かず離れずというバランスのなかで、諸外国とは地理的にだけでなく、関係性も孤立に近い形でいいと思っている。

世界は大航海時代からヨーロッパが中心で動いてきた。最初は、武力による支配で植民地化を進め、アフリカ大陸、アメリカ大陸、インド、中国、東南アジアとどんどん欧州列強の国々が支配を始めた。しかし、日本は明治維新から平和に暮らしてきた江戸時代を捨て、欧州列強に対抗するべく軍事力の向上を図り、水際で第二次世界大戦まで国を守ってきた。

また、その大戦の後にはすぐに経済による攻撃が始まった。それは今でも続くが、科学技術や金融による一見すると、自由貿易、自由競争という極めて人道的かつ平等な方法で戦っているようにも見えるが、その枠組みや規格などはやはりヨーロッパ諸国の主導であり、多くの国は未だに消費国として搾取され続け、日本も例外ではない部分もあるが、これも昭和の高度成長期やこれまでの技術革新などを経て、なんとか食らいつき、国を守ってきた。

そして、それも一段落すると、今度は環境問題を提起しながら、ヨーロッパ諸国が後塵を拝した技術の抑制や他国の発展を阻止し、その地位を守ろうとする動きが出てきている。環境問題というのは、武力のように恐怖による支配でもなく、経済のような欲による支配でもなく、人々の良心に訴えかけるのでそれを拒否しようものなら、たちまち極悪人のレッテルを貼られるという今までで一番卑怯な手段とも言える。日本は公害問題も経験し、河川の汚染、空気の汚染など色々と環境について取り組んできたが、ついにここへきて、温暖化、CO2削減になると旗色は悪くなってきたように思える。

しかし、本当に温暖化は進んでいるのだろうか?CO2が温暖化の原因なのか?排出量はどう定義しているのか?(つまり、実際は排出してても、計算上相殺するようなことはないのか?)ある特定の技術や製品だけ優遇されていないか?など、色々疑問が残り、本当に地球のための環境問題なのか、という点が疑わしく、日本はこれまでと同様、また振り回されている。

 

よって、明治維新以後から令和までずっとこういう欧米主体のグローバリゼーションに翻弄されてきたが、ここで一度そういうものから距離を置けないかと思う。もちろん、鎖国をするわけではないし、モノやヒトの交流を全て止めることは考えていない。しかし、あまりにも日本はこれまで振り回されてきたし、上手くどれも乗り切ってきたような気もするが、もうこれ以上付き合う必要もないのではないだろうか?

そして、次なる日本の使命は、同じように振り回されてきた東南アジア諸国などを救うことだと思っている。それは彼らが単なる消費国から脱却し、自立し、誰の干渉も受けずに自国民のための国をそれぞれが作れるようにするのだ。

私は世界は一つになる必要はないと思っている。それは私が色んな国を回った経験から、むしろそれぞれの国や地域は、それぞれの文化や価値観があって、それを守りながら他者と交流すればいいだけだと思うようになった。武力だったり、金だったり、環境問題だったり、いつも支配下にあった関係性から、まず日本は脱却したい。そして、日本なりの日本らしい国作りをして、一度狂った歯車を元に戻したいと思うのだ。

そのためには、どうするか。それは、知性と感動の時代を日本がリードすることである。それは、一人一人の人間が本当の幸せについて考えてみること。政治やマスメディア、さらには宗教も超えて、一人一人が思考の上で完全に独立すること、これが知性である。そして、そしてその幸せや達成感から生まれる感動。今度はそれをみんなで共有することで、人は助け合い、協力しあえる。みんなを愛する必要はないし、逆に敵視する必要もない。我々は一番みんなが幸せになれる状態を知性により思考し、それを実行していきながら、感動を共有する。そういう知性と感動の時代がいつかやって来るとき、日本は世界をリード出来る。それは決して支配と非支配の世界ではないはずだ。それぞれがそれぞれに対し、誇りを持ち、対等に向き合い、助け合う世界だ。

 

こんな理想、夢物語はともかく、日本の外交はまず、世界から少し距離を置くことから始めたい。