ケネディの言葉を前回の記事で紹介したので、今回は少し自分の事も書いてみたいと思う。
高校三年生の最後にもらった通信簿をみて、母が言ったことは、結局あんたは小学校一年生から最後まで12年間、落ち着きがないと書かれているわね、ということだった。
それは社会人になった今でも、多くの人から言われるので、このままずっと治らないと思っている。
そもそも、落ち着きがないとは何なのか。
https://medicalnote.jp/contents/171227-012-LP
ここに一般的な説明が書かれたリンクを貼っておくが、小さい頃の私は、離席が多いとか、しゃべり過ぎてしまうとか、当てはまるものばかり。
大人になってからも、ケアレスミスは多いし、時間やスケジュールは守るが、人が話すのを遮ってしまうことも多い。そもそも、話というのは、最後まで聞かなくても、だいたい結論が見えるので、その時点でコメントを入れた方が、お互いに時間短縮になっていいとさえ思っている。だから、私は話を遮られることには全く抵抗がない。むしろ、理解が早い人には感謝すらしている。
落ち着きがないということには、多動性と衝動性があるらしいが、私はどちらも兼ね備えている。多動性では、眠いとか、極度に疲れているとか、或いは風邪などをひいているという状態以外では常にじっとしていられないし、衝動性と言えば、何かを思いついたらすぐに、それをやりたくなってしまう。血気盛んで、行動力があると言えば聞こえはいいが、無計画、注意力や慎重さに欠ける、無謀など、そんな言い換えも出来る。
そして、私の子どもの頃にはなかった言葉が今ではある。それが、ADHDである。リンク先の説明でも、発達障害の一つと説明され、障害との認定らしい。
ここからが私の見解であるが、障害とはなんなのか、を考えてみたい。
人はそれぞれ違った状態で生まれてくる。足が速いとか遅いとか、身体が大きいとか小さいとか、目が見えるとか見えないとか。しかし、障害とは、そんな多くの人の特徴の中で、全体平均をとり、そこから外れている人を認定しているようだが、どうもそこがひっかかる。私が思うに、それは単に違うだけであり、それが故に何かが出来ないとか、逆に何かが出来るとか、それはただの特徴であり、何かが出来ないのであれば、助けてもらえばいいし、出来る人は出来ない人を助けてあげればいいだけで、障害者だとか、健常者だとかという区別をする必要はないと思っている。
私はADHDだったかもしれないが、当時は障害者だと言われたこともなければ、自分でもそう思ったことはない。小学校には特別学級というものがあり、障害を持っている子どもたちがいる教室があったが、何の違和感もなく、その子達と普通に遊んでいたし、確かに話すことが遅かったり、運動が苦手だったりしていたが、でもだからといって、そこに壁があるとは思ってなかった。要するに、どこで線を引くのか、そもそも非常に曖昧であり、結論として、私は障害者というのはいないのではないかと思っている。
そもそも、人間社会というのは、それぞれが違うことを利用して、協力していくことで、新しいことや、または困難なことを乗り越えてきたと思っている。目の見えない人の研ぎ澄まされた聴力だったり、私のような無計画な行動だったり、足が悪い人が他の部位で何かをすることがヒントになったり、全く話せない、動けなくなっても、生きてさえいれば、みんなの心の支えになる。例を挙げればキリがないが、それぞれがそれぞれ、社会と繋がって生きていて、それぞれの足りない部分をそれぞれが補完しながら、発展させてきた歴史がある。だから、私はパラリンピックもどこか疑問があり、例えば車イスバスケット。足が悪くない人であっても、車イスに乗ってやればいいだけで、新しいスポーツとして、普通にオリンピック競技としてやればいいと思っている。何も区別する必要はないのだ。
逆に区別をすると、どうなるか?足を事故か何かで失った人はそこから、障害者になる。また、何かの事故によって、外傷はなくても精神的なダメージで働けなくなったり、鬱状態になれば、心の障害となる。しかし、その事故がきっかけで例えば、頻繁に小さな嘘をつくようになった、人をいじめるようになった、物忘れが激しくなった、またはほんの少し手の動きが鈍くなった、など、そもそも今の基準で、健常者とされている人の中にもたくさんいるような変化があった場合はどうだろうか?変わってしまったが、まだ健常者としていくのだろうか?そこは医者の判断とするのかもしれないが、当然そこにはグレーゾーンがあったり、時代や場所によっても定義が変わるとすれば、やはりそもそもそんな区別はない方が良いと思っている。
何故なら、区別をしていることで、差別を誘発している可能性があるという側面も否定出来ないからだ。現在、健常者と認定されている人は、障害者とされている人に対して、優越感を抱いたり、逆に障害者であるから受けられるサービスや福祉を妬んだり、また逆に現在障害者とされている人が、健常者に対して劣等感を抱いたり、自信や誇りを失ってしまうことで、挑戦の機会やモチベーションも失ってしまうこともあり、このような心の壁が差別に繋がってしまうと思うのだ。
先程も書いたが、人はそれぞれ違い、それぞれがそれぞれの特徴を活かして生活しており、助け合っている。健常者とされていたって、船に乗って魚を釣れなければ、魚を釣れる人に助けてもらわなければならない。障害者とされている人であっても、全く何もやらなくていいわけではなく、やはり何かで貢献することを考えたり、実践することは大事なわけで、両者に何の違いもないことがわかる。つまり、人と人は、障害がどうのこうのということではなく、ただ助け合うことをするだけなので、あえて適当に作られた区別の壁は全く必要がないと思っている。
少なくても、自分の子どもには、そう教えたいと思う。そして、この考え方は、仕事を考える上でも重要になるので、いつかそこでも少し触れていきたい。