終戦記念日について

このブログを書き始めてちょうど1ヶ月になる。

興味本位で始めたブログだが、とりあえず1ヶ月続いた。今後は仕事が本格的に始まるので更新は週に1回か、または、それよりも少なくなるかもしれないが、ご容赦頂きたい。

さて、本日は終戦記念日であるが、毎年この日を迎えると二度と戦争の悲劇を繰り返してはいけないと思う。

まだ人類が戦争の悲劇を十分に理解しなかった時代、我々人類は自然との戦い以外に、同じ人間とも戦わないことには、国(地域など)、家族、そして自分の命を守れなかった。よって過去の戦争それ自体は決して否定されるべきものではない。むしろ命をかけて、この国の未来のために戦った我々の祖先たちには尊敬と感謝しかない。

しかし、多くの戦争経験者が我々子孫に対し残してくれたメッセージは、敗戦国となった今、もう一度武装して立ち上がり、かつての戦勝国に対し宣戦布告をし、次こそは戦争に勝利せよというメッセージではなかったはずである。むしろ、武力に対し武力で対抗すれば、それがどんどんと連鎖していき、最終的には、どちらかが息絶えるまで殺し合いを続けることになるという教訓だと思う。本来戦争とは兵士同士の戦いであったにも関わらず、第二次世界大戦の後半では、このままでは日本に勝てないと察した国々は禁断の手段を使った。そして、日本は沖縄で多くの犠牲者を出し、広島、長崎に原爆を落とされ、さらに東京大空襲という戦争の本来のルールを超えた形で、民間人、さらにその子孫まで多大なる被害を受けた。しかし、東京裁判ではこのような非人道的な行為に関しては、一切お咎めがなく、東条英機を筆頭に多くの日本人が裁かれた。戦争というのは、このように非人道的であるだけでなく、勝てば官軍負ければ賊軍というように、その戦後処理も非常に不平等なものになってしまう。だから、戦争なんてやるべきではないのだ。戦争に勝つということは相手の国の人間をより多く殺すことであり、それが果たして勝つということなのだろうか、という疑問もある。戦勝国こそ、または戦勝国の指導者こそ、最大の悪人であるはずであるというのが、自然な考え方な気がする。そして、人をたくさん殺し、戦争に勝った国の悪人たちが、巨額の富を手に入れ、戦後のルールを決めるのだから、戦争はなくならないとすぐに理解できる。人の命をお金に替えるのが戦争であり、戦争で命を落とす人は、国のためだとか、家族のためだと言われ、洗脳され、命を落とす。また運良く、生きて帰ってきても、多くは心に大きな傷を負い、精神的苦痛の中で余生を過ごすことになる。しかし、戦争を決断し、安全な場所で過ごす真の指導者は、命を落とさないだけでなく、戦後も悠々自適な生活が待っている。彼らの仕事は、戦争の理由を探し、きっかけを作り、人々を洗脳し、戦争を始めることである。こういう人達にペリー来航以来、日本はずっと騙されてきた。

だから、私は時間が許せば、靖国神社へお詣りをする。靖国神社だけではない、戦没者の祀られてる神社は尊い。様々な諸外国に侵略されそうになっていた日本の主権を守るため、苦肉の策として始めた戦争で、またはその後の裁判で、命を失った英霊のため、そこで私は不戦を誓う。きっとそれが英霊たちの願いであるはずで、戦後の

悪魔にそそのかされて、愚かな戦争に、二度と日本が参加しないように。