以前書いたアメリカ記事の追加で、今回はアメリカ人の考え方とかもう少し内面的な部分にも触れてみたいと思う。
何かとアフガニスタンの件もそうだが、いつも日本を振り回す存在であるアメリカであるが、それもそのはず。日本人とは全然思考回路が違うのだ。
アメリカ人の思考はストレートフォワードとでも言うかとても直線的で、合理的な考えをする人が多く、個を重要視する。
そんな違いがわかるエピソードをいくつか紹介したい。
空港の話。
とあるアメリカの空港で、バゲージクレームでなかなか荷物が出てこなくて、ずっと待たされた!という苦情が入ったらしい。
そこで、空港職員達は、乗客が飛行機を降りてからバゲージクレームまでの道のりを長くし、バゲージクレームまで到着する時間を平均で5分延ばしたとのこと。これにより、バゲージクレームでの待ち時間は5分削減でき、苦情は少なくなったとか。
これは、日本人には思いつかない発想である。苦情の内容は、バゲージクレームで待たされることであるから、それがなくなればいいという、問題と解決が完全な直線で結ばれるのがアメリカ人。日本人なら、バゲージクレームで待たされるのが嫌なのは、次の予定が入っていたりするなど、空港でロスする時間を減らしたいんだと、過大解釈もしくは先読みをしてしまうから、荷物を早く飛行機から取り出し、バゲージクレームへ送るための努力をすることになるだろう。しかし、そこはすでに多くの改良がされていることもあり、結果として、5分も短縮することは出来ず、客先からの苦情は解決しないということになり得る。
日本人からしたら、アメリカ人の解決方法では根本的なところが解決していないように見える。しかし、アメリカ人から見ると、日本人の方法では問題が解決していないように見える。そして、何度書くが、どちらが正しいということはない。それはただ違うだけである。
高速道路の番号の話。
これは、上のエピソードとはちょっと違うが、アメリカで感心した話である。日本だと高速道路の出口(インターチェンジ)は、例えば、海老名とか、太田桐生とか、ある程度土地勘のある人ならだいたいの場所が運転しながらでもわかるが、初めての人にとってみると、自分が出ないといけない出口がまだ先なのかもう通り過ぎてしまったのか、出口の名称だけを覚えていても、全然分からない。
しかし、アメリカの場合には、高速のある起点からの距離で番号が振られていて、例えば自分が出る出口の番号が36番だとすると、通り過ぎた出口の番号が20番なら、自分の出口は16マイル先にあると分かる。また、万が一、通り過ぎた出口の番号が40番となっていると、6マイル前に通り過ぎてしまったことがすぐにわかる。
また、これの便利なところは、新しい出口を作る必要があっても、連番ではないので、他の出口の名称を変える必要がないことや、日本のように新しい出口の名称を考える必要もない。とても、合理的であり、利便性も高い。
ただ、番号の名前しかないのは心なしか寂しいというか味気ない。高速道路というのは、長旅が基本で、出てくる地名を楽しむのもまた旅の醍醐味であるから、日本式が悪いわけでもない。
何が言いたいのかと言えば、これだけ考え方が違うということなのだ。
幼児教育の話。
これも、アメリカらしいなと思うのだが、とあるアメリカ人から聞いた話で、子ども(幼児)には、Noから教えるというのだ。それは、禁止を教えるということではなく、他人からの要求などに対し、まずはNoと断ることを教えてから、Yesを教えるというのだ。これは、家庭などによっても違うだろうし、一般的な話ではないかもしれないが、個を確立することを重要視するアメリカでは、yesとは相手を受け入れることであり、究極的には相手と同じ個になってしまうが、noということで、相手とは別の個が認識される。日本人というのは、yesを好む文化であり、迎合することは決して悪いこととは思われないが、アメリカでは、個が大事になる。例えば、日本人だと有名俳優や女優に似てるというのは、褒め言葉であり、言われた方は大抵喜ぶが、アメリカではbeautifulとか言うのはいいが、どんなに美しい女優であっても、美しいという表現のために、その女優に似てるというのは、個が否定されているようで嫌だという。
なんでアメリカがここまでストレートフォワードで、合理的で、個を求めるのかと言えば、それはアメリカが移民の国であるというのが大きいと思う。もちろん、ネイティブ・アメリカンもいるが、アメリカの文化を築いたのは、イギリスやドイツ、東欧や北欧からの移民たちであり、さらに南米、アフリカやアジアからも多くの人がやってきて今のアメリカがある。その歴史は、ニューヨークの自由の女神のそばにあるエリス島に残されている。私も訪れた際に、ここまで色んな記録が残っているのかと驚かされた。
移民が多い、つまり文化的な背景や共通認識がない者同士が分かり合うためには、単純明快な思考が必要になる。習慣だからとか、常識だからとか、そういう共通のものがないときは合理的な考え方が一番浸透しやすい。しかし、文化が醸成していくと、合理的な方法には面白味、人間味、情緒、趣がないように感じられ、時代とともに、社会のなかで合理性はだんだんと薄れ、心の文化になっていく。日本はそういう文化を何千年もかけて作り上げてきた国である。しかし、それもどんどん壊れ始めてはいるが、まだまだ根強く残っているものも多い。
また、個についても、多くの移民の中で生き残っていくためには、他人と同じことをしていては、取り残されるだけである。他人とは明らかに違う自分だからこそ、周りから一目置かれる存在になれる、つまりは社会のなかで重宝されるようになる。大勢の中の一人では、移民社会では埋もれてしまう。これも、国が安定していき、社会としてしっかりと機能してくると、みんなが同じ場所に長く定住するようになり、そんなに肩肘張って個を大事にしなくても、みんなが普通に暮らせるようになる。もちろん、人それぞれ違うのは当たり前なので、そんなに自分を主張しなくても、違いを共有し、それぞれがそれぞれの方法で社会と関わっていけばいいだけであり、無理に他人と協調したり、調和を大事にする必要もないが、逆に個性を全面に出す必要もなく、あるがままというか、やりやすいようにやればいいのだ。なんとなく、日本はそれが出来ている国に思えるが、アメリカ型を基準にすると、どうも個性がないと言われてしまう。
このように、アメリカで知ったエピソードや経験から、日本とアメリカの違いを知り、一方的に日本の考え方は古いとか、非合理的だから変えないといけないとか、そういう論調も多いが、アメリカ的な考えというのは、むしろすぐに実行出来るが、日本的な考えというのは、一度壊れてしまえばもう二度と取り戻せないかもしれないという貴重なものであることを忘れてはいけないと感じた。よって、我々は無理に欧米化する必要はなく、必要に応じて、合理性を求めたり、個を主張したりすればよく、それが決して正しいわけではないことを肝に銘じておきたい。
こんなアメリカと我々日本は同盟国であり、様々な問題につき、共同で解決していかなければならない。上手く付き合っていきたいものである。