敬老について

今日は敬老の日。そんな日にこんなことを考えてみる。

少子高齢化が進み、労働人口が減り、高齢者が増えることで税収が下がるのに、医療や介護の社会保障費が増えるので、日本の財政が今後危なくなるというニュースはよく目にする。

しかし、一方で高額な戦闘機をアメリカから買ったり、オリンピックで大赤字出したり、最近最もお金使っているのが、嘘かホントか分からない温暖化対策。さらに、コロナ対策で使途不明金が大量に発生した。こう見てみると、財政はまだまだ余力が有るようにも見えるので、ここはそんなに心配することないのではないか?と思っている。色んな無駄を考えると、社会福祉にかけられるお金はまだまだある。そして、これからもどんどんかけるべきだと思っている。社会保障費というのは、戦闘機やワクチンを買うのと違って、国内にお金が落ちるので巡り巡って、また税金として返ってくる。

そんなお金のことより、若者にとっては、むしろ、高齢者が多くなることで、全ての行政が高齢者向けになることの方が恐ろしいのではないか?と考える。

私の尊敬する田中角栄氏は、高齢者が安心して暮らせる社会を目指した。私も、これまで戦後の日本を発展させ、そしてmade in Japanを世界に広めたのは紛れもなく、現在後期高齢者になりつつある、団塊の世代やその前後の世代であり、彼らへの感謝を老後の安心できる暮らしという形でしっかりサポートしていくことに、何の異論もない。むしろ、どんどん推進すべきだと思っている。

しかし、社会や政治が高齢者を中心に回ってしまうことには危機感がある。

以前の"日本死ね"の記事でも書いたが、子どもの騒音問題。子どもは言ってしまえば、騒音をたてるのが仕事だ。元気に走り回ったり、大声で泣き笑いすることで心身ともに大きくなっていく。子どもに制限をかけては駄目なのだ。しかし、子育てが終わった老人からすれば、うるさいとなってしまう。そして、公園のルールが変えられてしまう。ボール遊び禁止も、高校生以上がやれば危ないというのは理解出来るが、小学生の遊ぶボールが危ないというのは、それを避けられない方に問題があるし、小学生にボール遊びを禁止してしまうことの方が日本の将来にとって危険かもしれないのだ。公園での遊びが制限されてしまっては、家にこもるしかなくなり、当然家ではお菓子を食べてテレビを観て、You Tubeまたはゲームをやるということになる。最大の損失は子どもたちが友達と遊ぶことが制限されてしまうこと。小学生時代は人間関係の基礎を学ぶ時期で、その放課後はとても重要だと思っている。次の損失は、子どもの運動能力と健康である。球技というのは、動くボールに合わせて身体を使う必要があるので、反射神経と運動神経の訓練になる。また、身体を動かすこと自体に肥満の抑制や筋力の発達があるだけでなく、日光を浴びることによるビタミンDを得ることが出来る。これらも、うるさいとか、危ないとか、いわれの無い苦情により、子どもたちの健全な成長が阻害されてしまう。

 

テレビ番組もそうである。コンプライアンスと叫ぶのは、テレビを観ている層が高齢者層であり、彼らは時間はたっぷりあるので、何か問題だと思えば投書する。これが、ここまでテレビを追い込んだのだと思っている。よって、若者が望むような非日常な内容の放送は出来なくなり、老人の望む穏やかな番組が増え、若者のテレビ離れが加速する。しかし、人口比、またはテレビの視聴者層からみれば、老人を相手した方がいいということで、どんどんそちらにシフトしていく。その結果が、散歩•クイズ•健康番組が三種の神器のように増え続ける。これ自体には子どもに与える影響は少ないものの、私の子ども時代は学校でみんなが同じテレビ番組をみて、歌にしても、お笑いにしても、ドラマにしても、共通の話題があったが、テレビ離れしてしまった今の世代は何が共通の話題になっているのだろうか?昭和生まれからみると、テレビをみんなが観なくなってしまうのはなんとなく寂しく感じる。

政治は顕著である。数が少なくて選挙に行かない若者と、数が多くて選挙にも行く高齢者。政治家ならどちらに合わせた政治を目指すだろうか?主な日本の政治家というのは、政治家になることが仕事であり、何か日本のため、地域のために何かをすることは二の次という人が多いように思える。だから、居眠り議員が減らないし、公約は守らないし、不祥事ばかりだし。こんな体たらくな政治家にとってみれば、特に主義主張がないので、手っ取り早く手堅い高齢者の票が欲しいということになり、そこを狙った選挙戦略が多くなる。数が少なくて、忙しく選挙に行けない若者受けする政策には何の魅力もないのであろう。

 

ただ、こんなことよりも最もひどいのが、公然と蔓延る年齢差別。

採用において、女性だから採用しないなどの性別差別は厳しく処罰される。同じように、外国人、障害者、被差別部落問題など、就労に関する差別はなくなっているのに、年齢差別、つまりは定年退職はなくならない。アメリカでは、年齢により雇用を継続しないということはない。パフォーマンスによるか、または本人からの引退宣言が必要になる。年齢を迎えたから退職というのは、高度成長期のように若者が溢れている時代には必要な措置だったかもしれないが、今では不要であり、外国人を受け入れるだとか、女性に働くことを強いる世の中に、完全に矛盾している。年金が貰えないという不安を抱えているのに、仕事まで辞めさせられたり、または給料を年齢を理由に下げられたり、これからの老人、つまり今の若い世代の未来は厳しい。しかし、とは言え、今は45歳定年制や70歳定年制など、定年制度自体の見直しは局地的に始まっている。ただ、私としては、そもそも年齢で何かわ決めること自体がやはりおかしいと思っているのだ。定年退職後の再就職もまた、年齢により差別を受け、年収はガクっと下がる。

 

最後に一つ。これはこれで別途ちゃんと書かないといけないのかもしれないが、社会保障費、その中でも医療費が高騰していることの原因は老人が増えたことよりも、ガンやら人工透析やら、糖尿病など、そういう病気に対する利権がすごく関わっているのではないかと思っている。ガン利権は最近、色んなところで明るみに出てきたので、知ってる人も多いだろうが、人工透析なんかも病院にとってはドル箱患者とも言われている。病気を治すことよりも、病気を放置して治療し続けて金のなる木として患者を扱うことが公然と行われているというのだ。医師もビジネスである。製薬会社も保険会社も、みんなビジネスである。その病気が存在することが飯の種になっていることがある。変な話、ゴキブリがいなければ、ゴキブリ対策商品は売れない。ガンが治療可能な病気になれば、ガン保険も、ガン検診も、抗がん剤も、ガンの医療機器も、ガン病棟も、ガン一大産業がなくなってしまうことを意味する。

 

未来のことは想像しても意味がないかもしれないが、我々の老後は、仕事なく、年金なく、命はあっても2つか3つの病気を抱えて、30年後の敬老の日を暮らしているのかもしれない。

敬老の日。色んなことを考えさせられる。