結婚について

小室圭さんの帰国、眞子さまとの結婚会見と、ワイドショー的に報じられており、国民の関心も、むしろ総裁選より高いのではないかと思うくらい、賛否両論分かれている。

当たり前だが、眞子さまというのは、日本の名家中の名家、天皇家であり、箱入り娘というか、もう国民全員が手塩にかけて育てた大事な大事な女性である。かたや小室圭さんというのは、母が金銭トラブルを抱えていたり、本人もどことなく浮ついているようで、大切な娘を嫁がせるには、あまりにも釣り合わない、そんな意見が多いように思う。

だから、今回どうしてみんながあれこれと意見を言い始めたのか、それを考えるうえで、そもそも結婚とは何だろうかと、考えるいいきっかけになった。

まず、結婚とはそもそも古来の考え方で言えば、国や地域、共同体、さらには広い意味での家族の発展と秩序のために作られた制度だと思っている。つまり、男女が一緒に住み、子どもが生まれて、新たな労働力を国や地域、共同体や家族の一員になれるように育てる。子育てをする過程で、女性だけでは食べ物を取ってきたり、または外敵から身を守れないので、男がずっと一緒にいる必要があった。だから、生まれた子どもを守るために、その親である男女は共に協力して生活していくため、結婚という形が望ましい。

つまり、結婚の成り立ちから考えると、誰かの結婚に関して、その男女が全く別の共同体にいるのであれば特に関心はないかもしれないが、同じ共同体にいる以上、何らかの意見や希望があることは、とても自然なことなのかもしれない。何故なら、それが直接的にその共同体や家族の発展、未来に大きく関わるからである。だから、ワイドショー的に今回の件が取り上げられているのも理解できる。

しかし、近年、急速にこの結婚の概念は変わってきている。新しい概念は、なかなかすぐに多くの人に受け入れられるというのは難しいが、そして良いか悪いは別だが、確実に変わろうとしている。

まずは、夫婦別姓制度。これまでなら、家族として一緒になることの象徴として、結婚と同時に夫婦が同じ名字になっていたが、今後は変わる可能性がある。これは、単に夫婦が違う名字になるだけではなく、これまでの家族制度や結婚制度への意識が大きく変わることを意味している。つまり、これまでなら結婚すれば、同じ名字を持ち、それは名前という自分の持つ一番のパーソナリティーを変えることで、相手の家族に受け入れられ、一つの家族として生きていくということだったが、夫婦別姓なら、夫婦は一つの家族のように見えても、それは一緒に住んでいるだけで、お互いは元々いた家族のままで、2つの家族が同じ屋根の下で暮らすだけとなる。そして、生まれてくる子どもは自分の名字を選ぶ必要が出てくる。これも非常に可哀想だ。もし、どちらかの親がとても嫌われていたりして、簡単に選べる場合もあるだろうが、大抵は父も母も好きで、どちらかの名字を選ばないといけないというのは、非常に心苦しいと思う。つまり、結婚しても、家族というより、パートナー。それが、夫婦別姓

次は、同性婚である。これは全く問題ないとは思うが、ただ、今までの考え方で言うと、子どもが出来ないペアで結婚することは共同体や広い意味での家族の発展に繋がらないからと、反対派がいるのは事実。しかし、以前の記事でも私は何度か書いているが、子どもを産むかどうかというのはそもそも強制されることではない。何故なら、今の社会では、女性も働けと言われこれまでのように育児や家事に専念出来ないし、男性も子育てに参加しろと言われるため仕事は制限される、しかも、両親や親戚とは離れて暮らしているため、子どもの世話をするのはお金の問題ではなく、人手の問題でかなり厳しいのだ。よって、子どもを産まないという選択肢は当然、尊重されるべきであり、そうなれば、同性婚であってもなんら問題はないはずである。ただ、固定概念などがあり、頭では分かっていてもなかなか考え方を変えられないという人のことを批判するのもまたおかしい。つまり、同性婚反対というと、差別主義者だとか、人権を無視しているとか、言われてしまう。しかし、本来言論の自由があり、また彼らは同性愛者を否定しているわけではなく、同性婚反対というのは、結婚制度として、それが成り立っていないと思っているだけであって、その意見はその意見として、しっかり聞くべきなのだ。リベラル派というか、そういう人たちは、こういう今や少数派になってきた同性婚反対のような意見を目の敵にしてしまうが、これはこれで危険思想である。民主主義の大前提は多数決であるかもしれないが、同時に少数意見の尊重が守られてこその多数決なのだ。

と、ここまで書いてきたが、要するに何が言いたいかと言えば、結婚というのが、現在では共同体や広い意味での家族から、個々人の選択になったということなのだ。よく考えてみれば、昔のように結婚して家族みんなで住むわけでもなく、バラバラで住み、嫁ぐと言っても、どちらの両親とも年に数回会う程度。女性も社会進出しろと言われているから、名字だって変えるのは面倒だし、子どもだって保育園が充実してるからと言っても、その準備、送り迎え、病気になったときの対応、帰宅後の世話を考えれば、決して楽なことではないから、産むのは躊躇う。また、小学校、中学校になれば、いじめ問題があったり、教育費が大変だったり、大学いっても就職難だったり、子どもを育てるのは本当に多難なのだ。要するに、これだけ社会が変わったのに、結婚制度だけを現行のままにするということ自体が無理であり、結婚制度を維持したいなら、社会もまた元に戻す必要があるし、それが出来ないのであれば、新しい結婚制度が生まれるのも許容する必要がある。

よって、小室圭さんと眞子さまの結婚はみんなで祝福したらどうかと思う。何故なら、二人はこんな周りから反対されながら、長期間の遠距離恋愛を続け、なお結婚の意思があるのだ。確かに、天皇家のこと、華族のこと、国民の気持ちのこと、なんかそういうものを考えてしまうと、ベストな選択なのか?と思うかもしれないが、二人が結婚したいと強く思っていることが、今の結婚の最も重きを置かれる部分であり、その他の要因は上記のように、あまり関係なくなっている。だから、2人が二人にとって幸せだと思える選択をしたのであれば、周りは祝福するというのが、現代流だと思っている。

ただ、自由には責任も伴う。自由恋愛の末、自分たちの意思で進めた結婚であるなら、親のせい、社会のせい、周りのせいには出来ない。生まれてくる子どもや、親、親戚などに迷惑をかけないように、結婚生活をしていかないといけない。特に、小室圭さんと眞子さまに至っては、国民がみんな注目している。高いハードルかもしれないが、幸せになってもらいたい。そして、ワイドショー的に報道するのも控えてあげたい。あとは、何年後かに、あの人は今、で紹介してもらえばいい。それか、眞子さまがインスタでも始めてもらうか。