イスラエル問題について

最近、ウクライナ問題を一気に超えて、世界的な話題となったのは、ハマスイスラエルに奇襲をかけて始まってしまった戦争である。

この問題は、非常に根深く、人々の怨恨が多くの人に植え付けられてしまい、取り返しのつかない事態になってしまっている。

今回はハマスイスラエルに対し、音楽コンサート会場を突然攻撃したことをきっかけに、イスラエル側も激しい攻勢に出て、戦火が一気に広がり、特にガザ地区への空爆の被害とガザ地区の悲惨な状況(食料も水もない、薬や日用品もない)は連日報道されている。もちろん、イスラエル側も多くの被害が出ているが、報道されるのはガザ地区のことが多く、日本ではガザ地区の人々への同情が集まっているようにも見える。

ウクライナ問題の時には、ウクライナが正義で、ロシアが悪だった日本のメディアも、イスラエル問題については、いきなり奇襲をかけて一般人を殺害したハマスをそこまで悪として扱ってないこと、またイスラエル側をアメリカがかなり擁護し、停戦合意すら拒否権を発動してしまう暴挙に出ても、日本はアメリカとは別の立場でこの問題に向き合っていることには少し驚いた。今後はどうなるかは分からないが、日本政府がどう関わるのか、少し注目したい。出来れば、日本としては、まず停戦を求めて欲しい。

この問題は、二元論的な思考では絶対に解決しないどころか、対立は悪化するばかりである。何故なら、仮にイスラエルが正で、パレスチナが悪とした場合、何千年も前に住んでた民族にその土地の権利があり、新しく来た民族は出ていかないといけない、ということになってしまう。これはどういうことかと言えば、イスラエル建国という世界中に広がったユダヤ教徒の夢でもあった聖地エルサレムに戻る、そしてそこに自分たちの国を作る、そのためにこれまで長くそこで暮らしていた人たちを追いやって、高い壁の中で移動制限と厳しい統治下、劣悪な生活環境の中で生活させるということが正しい行動ということになれば、例えばアメリカ大陸に目をむけるなら、先住民族ではないヨーロッパ、アフリカ、アジアにルーツを持つ人々はアメリカ大陸のどこかに強制的に移動させられ、アメリカ大陸の大部分はインディアンなどの先住民族に明け渡す必要がある。そのため、無理矢理イスラエルを建国した過去についての議論は欧米諸国は口を閉ざす。しかし、逆にイスラエルを悪、パレスチナを正とすると、テロ活動を容認するようにも受け取られてしまう。本質的には、ハマスと一般的なテロ組織とは全然違うのだが、強大なイスラエル軍と戦う際には、ハマスとしてはテロ的手段を取らざるを得ない面があり、それが欧米メディアを通じてニュースなどが流れると、ハマスはテロ組織にしか見えなくなってしまう。ただ、何はともあれ、突然、一般市民の集まるコンサート会場を攻撃することを正だなんて言えない。つまり、この問題で、正義か悪かを議論する二元論は難しい。

また、イスラエルユダヤ教パレスチナイスラム教という宗教対立、ユダヤ人とアラブ人の民族対立というものも存在し、これになってしまうと、憎しみの連鎖しか生まないし、時代や世代をまたいでも禍根がずっと残る。簡単に書けば、自分の父がパレスチナ側に殺されたとなれば、死ぬまでイスラム教やアラブ人を憎むだろうし、子どもや孫にもそう伝えて、憎しみは連鎖していくだろうし、チャンスさえあれば、復讐しようとも考えるだろうし、誰にも止められなくなってしまう。そして、言わずもがなユダヤ人というのは、世界の金融界に多くの繋がりがあり、潤沢な資金とそれに群がる欧米の軍事サポートを受けられるのに対し、イスラム教徒アラブ側はサウジアラビアやイランなどの強大なイスラム教の結束力や資金力が頼りであり、特に土地の利ではないが、イスラエルガザ地区パレスチナ自治区を囲っているようにも見えるが、さらにその周りはシリアだの、レバノンだの、エジプトだのと、アラブ諸国に囲まれており、このユダヤ対アラブという二元論は力が拮抗してしまって長引けば、世界戦争にも繋がり兼ねないかなり危険な状態なのだ。それは、ロシアとウクライナなのような宗教的、または民族的に近い場合のものとは、やはり違うと言わざるを得ない。

そして、周囲を全部アラブ国に囲まれてるイスラエルは自ずと防衛のために、潤沢な資金やアメリカの後ろ盾で軍事大国になりつつあり、その力でガザを攻め立てれば、ガザの人々が逃げ場もなく、惨殺されてしまうのは火を見るより明らかである。

さて、ここから色々と考察をしてみたい。

まず、私がハマスの上層部にいて、イスラエルと敵対関係にある場合、もちろん、サウジアラビアイスラエルが接近しつつあるとか、ガザ地区がアラブ世界から支援を受けられなくなるとか、そんな状況が例えあったとしても、今回のような奇襲をするかどうかと言えば、もちろんしないと思う。何故ならイスラエルハマスの軍事力の差は途方もなく大きく、奇襲などすれば、当然、倍返しどころか壊滅まで追い込まれるくらいの攻撃をされてしまうことは簡単に想像できる。ハマスイスラエルの軍事力を把握してないなんて、到底そんなことはあり得ないことであり、基本的には世界のどの国の軍事力は公開されているもので、詳細まではわからなくてもだいたい互いに把握している。これは抑止力にもなるという理屈で、相手の戦力を全く知らないなんてことはほとんどない。つまり、攻撃すれば、逆に多くの同胞を危険にさらし、そして彼らを守れないことはハマス側にとっては明らかなのだ。そして、元々イスラエルからすれば、ガザ地区という地理的に盲腸のような場所に反イスラエル住民が固まっていることはリスクでしかないので、出来ればあそこもイスラエルにしたいという気持ちを持ってることも明白である。つまり、今回の奇襲は、そんなイスラエルに、ガザへの攻撃の大義名分を与えてしまい、案の定、ガザ地区は大虐殺の現場になってしまった。よって、世界からはガザへの同情が当然集まるものの、イスラエルにとっては奇襲されたという事実と、人質を取られているという事実を盾に、攻撃の手を緩めるどころか、戦火はどんどん広げている。ロシアのウクライナ侵攻を非難し、ロシアの攻撃を野蛮だとか、卑劣だと訴えてきたアメリカは、イスラエルに対しては全面支持という不思議な立場だが、それもこれも、奇襲と人質という大義名分が一定の正義を与えてしまっているためだと思っている。

つまり、いつでも攻撃したいと思っていたイスラエルにとって、ハマスの攻撃は飛んで火に入る夏の虫、という風にも見えたのではないだろうか。そもそも、イスラエル軍にはガザをモデルにした訓練設備があったり、ガザ侵攻のための作戦やら訓練は相当準備されたものであり、ある種、いつか起こるであろうと準備していたシナリオ通りなのだ。当然、こんなこともハマスが知らないはずもなく、奇襲の先に詰み手、つまり勝ち目がないことも分かっていての攻撃だったのか、疑問は多い。

そして、次に、奇襲そのものについてだが、ガザ地区にいるハマスガザ地区から攻撃した、ということに対して、本当にイスラエル軍や政府が全く気がついてなかったのか?ということについても疑問がある。イスラエル諜報機関は世界有数の優れた機関であることは有名で、かつ、ガザ地区というのは、四方(海側はないので三方?)が壁に囲まれ、大量の監視カメラがあり、ハマスの地下通路も把握していて、スパイなんかも当然いるだろうに、こんな大規模な、そしてかなり綿密な計画の上に実行されたようなものを察知出来なかったのか、というのは、あり得ることなのか。つまり、本当に"奇襲"だったのか、それが疑わしいのである。もし本当に気づかなかったのであれば、諜報機関はよっぽど、、、と思うが、そんなことはあり得ないだろう。

こういう大事件の背景には、その後利益をあげた側に何らかの思惑があり、そちらが真犯人と考えるという考え方がある。今回、ハマスガザ地区の人々は奇襲で何も得ていない。むしろ、全てを失いかけている。そして、そうなることは上に書いたように、容易に想像出来た。そして、イスラエルは世界からの言葉に耳を傾けず、ひたすら想定通りとも言える用意周到な手際の良い攻撃を進めている。地上侵攻も始まった。もし、奇襲がなければ、ここまでの攻撃は出来なかったはずであり、元々このような侵攻を狙っていたイスラエルには都合が良かったのではないかとさえ疑ってしまう。もちろん、そんなことを証明する手段もないし、あくまで想像の域を超えないが、イスラエル側が望む形に近くなっており、人道的な批判をはねのけ、訓練の成果を思う存分発揮するイスラエルの姿には違和感がある。もちろん、私はハマス側が無理を承知で、この奇襲を何としてでも実行しないといけないという焦燥にかられて行ったという説を否定するつもりはない。そして、本当にそれをイスラエルが気が付かず、この戦争が始まったという説も否定しない。それはそれであり得るからだ。しかし、それがそれであり得るからこそ、怪しいのである。大義名分を作る時に、そんなのあり得ないと誰もが思うシナリオは大義名分にはならないからだ。

私は、イスラエルユダヤ教というのが、どんな宗教なのか詳しくは分かっていない。一般的なことは何となく知っているが、細かいところまでは勉強したことがない。よって、このような殺戮を、例え奇襲という大義名分があったとしても、続けることはユダヤ教の教えに照らした時に、容認されるものなのだろうか?例えば、キリスト教で言えばアガペー、仏教で言えば慈悲、古くからあるある一定の信者を抱える宗教は、人間の残忍さや自分勝手な欲望を否定し、他人に対する理解と尊敬を求め、最低限の道徳などを兼ね備えていて、無秩序な世界からの脱却を教義としていることが多いようにも思える。

どんな大義名分があろうと、明らかな力の差があり、一方的な攻撃が繰り返される現状を見ていると、私を含め、多くの人々は他人事ではいられなくなるし、本当に胸を締め付けられる思いになっている。よって、こういう時こそ、宗教の力で即時停戦をすべきであると考えている。こんな時に無力な宗教なら、宗教があることの意味さえ疑ってしまう。国連だとか、G20だとか、国際会議が無力なのはよく分かっているが、宗教は人々が幸せに暮らせるためのものであり、人々に混乱や不幸を与えるためのものであってはならないようにも思う。

本当は何が真実で、誰が誰のためにこの戦争をしているのか、色々考察したが、本当はこんなことどうでもいいのだ。優秀な人間が世界には多くいるのであれば、何かいい案を募集して、これ以上ガザ地区の人々が不幸にならない方法を編み出してほしい。私の案は宗教の力、イスラエルにはユダヤ教の教義に戻ってもらいたいと思っているが、ユダヤ教がもし、こんな民族浄化みたいな話を容認しているのであれば、違う解決策が必要になる。明らかに自己防衛の域を超えた攻撃はもう止めてもらいたい。

サウジアラビアについて

仕事をしていると、色んな経験をさせてもらえるってことにも繋がっていくのだが、今年は人生で初めて、中東の国々へ行くことが出来た。特にサウジアラビアは自分の中でかなり印象的だったので、今のうちにまとめておきたいと考えた。

まず、日本人の中で、サウジアラビアという国の名前を知らない人はほとんどいないと思うが、場所だの、面積だの、細かいことになってくると、全くの未知の世界と言っても過言ではないだろう。

まず、サウジアラビアと聞いて、真っ先に連想されるのが、石油だろう。サウジアラビアの貿易をみてみると、輸出の大部分が石油であり、石油はサウジアラビアの発展と存続の礎であることは間違いない。資源のない日本が頼っているのがサウジアラビアからの石油でもある。

次に思い浮かぶのが、砂漠とラクダ。国土のほとんどが砂漠であり、飛行機から下を見た時に、かすかな緑さえ見つけられなかったのはとても印象的であった。インドネシアや日本から考えると信じられない光景だが、サウジアラビアには森や川、畑や田んぼ、そんなものは一切見かけなかった。もちろん、無いことはないのだが、私の滞在中には見つけられなかった。実際、貿易の上でも、野菜などの食べ物はほとんど輸入に頼っている。

3つ目は、メッカ。サウジアラビアでは、マッカと発音することが多いようだが、言わずと知れたイスラム教の聖地であり、全てのイスラム教徒が人生で一度は訪れたい場所がこのメッカであり、メディナ(メッカに継ぐ、もう一つの聖地)である。ただ、メッカという言葉や街は知っていても、ここがサウジアラビアだということを知らない人も、日本には多かった。

そして、最後。サッカー好きなら、ここ最近、多くの超スーパースター達がサウジアラビアでプレーしていて、サウジアラビアのサッカーは世界から注目を集めるようになった。そもそも、サウジアラビアがワールドカップでスペインを破ったこともあったが、サウジアラビア内でのサッカー人気は高まっている。その中で、クリスチアーノ・ロナウドネイマールベンゼマなどの超スーパースターや、各国の代表選手もどんどんサウジアラビア入りし、ここ最近のサッカー界を賑わせている。

まとめると、サウジアラビアの印象は、石油とイスラムと砂漠とサッカーである。

また、あまり知られていないこととしては、サウジアラビアの国土は日本の約5倍とかなり広大な土地を有してることと、周りのアラブの国々と比べても、サウジアラビアの大きさは桁違いである。例えば、2022年ワールドカップが開催されたカタール、かの有名なドバイやアブダビのあるアラブ首長国連邦クウェートオマーン、ヨルダン、イエメンもサウジアラビアに比べるとだいぶ国土は狭い。また、地政学的なことになると、近代史の話題の中心にいるイスラエルサウジアラビアの隣国であり、イラクとは国境を接している。これを考えると、サウジアラビアが外交などの面では難しい選択を迫られそうな場所にあることは十分に理解出来るだろう。また、その先にはイランがある。イランはサウジアラビア並に国土が広いが、若干サウジアラビアには及ばない。そして、海を隔てるとエジプトがあり、スーダンがある。そんな日本ではあまり話題になることが少ない中東地域の中心にサウジアラビアはある。また、メッカがあることで、周囲のイスラム教国のなかでも、宗教の中心でもあり、サウジアラビアの周辺国に対する影響力は大きい。

しかし、意外と日本では知られていないが、中東地域やヨーロッパなどでは話題沸騰なのが、NEOMプロジェクトだ。その中でも最も注目されているのが、The Line。サウジアラビアの北西部の海岸から横170km、幅500m、高さ200mの建物を建設するというもので、スーパー未来都市である。完成したら、一度訪れてみたいと思う。ただ、世界一を目指したジェッダタワーも未だに完成してないので、こちらもどうなるのか先行き不透明ではある。

さて、ここまでがサウジアラビアの概要であり、訪れなくても分かる情報ではあるが、訪れないとなかなかここまでは調べないとも思う。恥ずかしながら私は、サウジアラビアに行くことになってから初めて、上記の概要を知った。

そして、サウジアラビアに着いて、現地のサウジアラビア人と言っても、仕事で会う人にサウジアラビア人はほとんどおらず、ネパール人、インド人、バングラディシュ人、エジプト人という感じで、ホテルのフロントにサウジアラビア人がいたり、空港などのスタッフにもいたのかもしれないが、しっかりと話せたのは、たまたま出会ったUberの運転手だけであった。彼には片道2時間の場所へ往復してもらったりもしたので、車内で色々話せた。そもそも彼は学生時代に日本の東海大学に交換留学生として来ていたとのことで、日本語も少し出来るし、日本好きでもあったので、すぐに意気投合した。そんな彼との会話のなかで感じたサウジアラビアにも少し触れてみたい。

彼はイスラム教徒の鏡のような人物で、日本に来ても、お酒は飲まないし、豚肉は一切食べなかったらしい。そもそも、お酒については、人生が破滅するという思いがあり、拒絶しているとのことであった。

まず面白かったのは、フスハーの話である。サウジアラビア公用語であるアラビア語は、一般的に話される言葉(アンミーヤ)とは別に、フスハーという古代から使われてる言葉があるらしい。それはほとんど形が変わってないので、1000年前の人間が今例えば生き返ったとして、フスハーを話せば、現代のアラブ人と会話が出来るとのこと。日本で言うと、1000年前というと、1192年(いい国作ろう鎌倉幕府)よりも前なので、平安時代である。ありおりはべりいまそかり、の時代から蘇った人の言葉を理解出来る人は、限られているだろう、と考えるとフスハーはすごい。ただ、じゃあ我々外国人がアラビア語を勉強する時にフスハーを勉強して、話せるようになる必要があるかと、聞いてみると、外国人がいきなりフスハー話したら、strangeだと言われた。この辺りの使い分けはよく分からなかったが、アラブ諸国の歴史の深さを知れた。

アラブ諸国と一言で言っても、彼の中で、スンニ派シーア派では、かなり違うとのことであった。シーア派スンニ派に比べて、宗教心がないというか、緩いのだと。これは、個人差のある話だろうし、私自身、確認のしようがないので、なんとも言えないが、イランはシーア派サウジアラビアスンニ派とのことであった。

また彼は、日本はゲイやレズビアンが多いんだろ?と聞いてきた。サウジアラビアでは禁止だが、日本は自由なんだろ?だから、増えているんだ、みたいなことを言っていた。私は、増えてるかどうかは分からないが、差別はなくなってると言ってみた。すると、彼は、普通の男女が逆に差別されてるんだろ?と言った。そんなことはないよ、とその時は笑ってやり過ごしたが、後から彼の言葉が効いてきた。

確かに、最近日本では堰を切ったようにLGBTのことが話題になり、差別をなくせとか、平等の権利をとか、声高に叫ばれるようになり、私はずっとそれが普通のこと、当然のムーブメントだと思っていたが、違和感を持つようになった。ここで詳細な議論をするつもりはないが、大多数の男女、それはLGBTには属さない人たちの主張は全て差別的だと非難されるようになり、LGBT 的な発言のみが正しいとされることに気がついてしまった。例えば、心は女性、身体は男性といういわゆるTransgender の方が女性専用のトイレや温泉を使うことに反対することは、差別である。

でも、まだ8歳で一人で温泉に入れない男の子、または女の子が、その母や父と一緒に反対側のお風呂に入るのは禁止である。つまり、この年代の子どもを持つシングルマザー、シングルファザーは温泉に入れないのであるが、これは差別ではない。しかし、もし、シングルファザーの離婚原因が、婚姻後にトランスジェンダーであることに気が付いたことであり、心は女性であるという認定を受けた場合、その8歳の娘と女風呂に入ることを拒むのは差別である。そしてこれは、シングルマザーやシングルファザーに限ったことではなく、共働きが増えると、片方の親だけが仕事を休めて、片方が休めないために、片親だけで銭湯に連れて行かないといけないケースだって出てくるが、変な話、トランスジェンダーは、子どもに合わせて、身体上のお風呂と精神上のお風呂の両方を選べるのに対して、多くの男性または女性は当たり前だが、子どもの性に合わせてお風呂の男女の高い敷居をまたぐことは許されない。

これはあくまで一例だが、LGBTを差別しないということと、普通の男女が今まで通り、普通に暮らせる社会を壊すことは違う。サウジアラビアで、彼が言ったことは、そもそも男女で違うので、その違いに合わせた違う権利がサウジアラビアでは守られていて、日本では守られていない、または壊れかけている、そんなことを言いたかったのかと、思い返してみた。つまり、見た目の平等と本質的な平等の違いなのだと。

最後に彼の話で一番印象に残った事、それは、サウジアラビアサイゼリヤを持ってきたら、必ず売れる!と言っていたことだった。小難しい言語や宗教の話はお互い熱弁するものの、どちらもなんとなく受け入れられない一線のようなものがあり、盛り上がりには欠けた。ただ、サイゼリヤの話は彼が日本にいた時に一番お世話になったレストランであり、値段も味も量も、どれをとってもサウジアラビアにあるレストランより素晴らしいと褒めちぎっていた。イスラム教徒なので、豚肉関連の食事はダメなので、ベーコン、ハムや豚肉ソーセージを避けないといけないため、かなり多くのメニューが制限されるが、サウジアラビアでも出せるメニューに作り変えていけばいい。とにかく、日本のレストランの食事はどれも美味しかったとのことで、サウジアラビアでは高額なレストランは美味しいが、安価なレストランであれだけのクオリティはなく、その筆頭がサイゼリヤらしい。私もファミレスのなかではサイゼリヤは好きな方であり、家族で行くこともあるが、サウジアラビアで売れそう、とは思ったことはなかった。

サウジアラビア外資系の外食産業がたくさん進出していて、マクドナルドやKFCはもちろんのこと、トロント時代にお世話になったカフェのティムホートンズがあちこちにあったり、私のイメージとは少し違った。よって、こんな中ならサイゼリヤサウジアラビア進出も決して夢物語ではないのではないか?と思い、かなりこの話は盛り上がった。

 

最後に私の訪れたジェッダの写真を何枚か。

古い町並みが残る場所や世界一高い噴水、そして水上に浮かぶモスクなど、見どころ満載の街であった。これにジェッダタワーが加われば、本当に観光都市になる。

ここジェッダは昔からメッカやメディナに行く巡礼者が最初に着く港町で、メッカへの玄関口として、栄えていた場所だけに、かなりその歴史も古い。

今は、大きな飛行場が2つもあり、観光客やビジネス客用と、巡礼者用のものであり、二度目のジェッダ訪問の際にはジャカルタ経由で帰ったため、ガルーダ便に乗ったのだが、その際には巡礼者用の空港を利用した。

巡礼者はインドネシアから毎日何百人と来ているようで、全て巡礼ツアーで、みんなツアー会社ごとで同じ格好の団体客の中に、唯一の私服、さらにインドネシア人ではない乗客として飛行場にいたので、目立ってしまった。しかも、飛行機の出発時間が勝手に5時間早くなってしまっていて、元々の時間に飛行場に行ったのに、もう出発してしまったというから驚き。ガルーダ職員に相談したら、ホテルなどを用意してくれて、次の日の便を取ってくれた。ここでインドネシア語で交渉をしたため、大変驚かれたが、そのお陰かとても良い待遇で迎えいれてくれた。彼らが用意してくれたホテルは、ガルーダのパイロットやCAさんが泊まるホテルのようで、制服を着た人がたくさんいた。予期せぬ形で、二回巡礼者用の飛行場に行ったのだが、どちらの日もインドネシアからのツアー客で空港はごった返していた。よく巡礼ビジネスとか揶揄されるが、人口三億人のインドネシアが最大の顧客、ではなく、支援者なのかもしれない。見知らぬ土地で、インドネシアとの繋がりを持てたのは嬉しかった。


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遊びについて

最近の2年間で全くやらなくなったものと言えば、飲み会からのカラオケ、ビリヤードやダーツ、アウトドアだとフットサルや草野球などなど、遊びが完全になくなった。

今の時代、あまり男はどうだとか、女はどうだなんて言い方は軽蔑されるし、避けられるが、そうは言っても、やはり男女間では色々な違いがある。その中で、遊びの捉え方というか、位置付けが男女では全然違うような気がする。 

男にとっての遊びは、友情の始まりであり、気が合えば、さらなる遊びを通じて深めていき、深まった友情からその他のアクティビティへと移行していく。それは例えば一緒に仕事をするとか、相談事をするとか、何かで助け合うとか、そんなところだ。しかし、女にとっての遊びとは、友情が芽生えてからするもので、仲良い者同士でするものという位置付けに思える。よって、男にとっては遊びとは社会との繋がりそのものであり、女にとっての遊びは娯楽であると思っている。それは私がこれまで男社会で生きてきてそう感じている。

以前の記事で、男社会における競争の話に触れたが、何もなければ男は競争と戦いの本能によって生きているのだが、遊びが緩衝材になり、男同士を結びつける。女は何もなくてもお互いに話始めるし、他愛もない会話が出来る。そして、仲良くなったり、ならなかったりしながら関係性を築ける。子どもの集まりで、お父さん同士が話している姿はあまり見ないが、お母さん同士が声高に話している様子はよく見かける。お母さん同士の方が頻繁に会っているからと昔なら言えたが、今はお父さんも毎日送り迎えをしたり、行事に参加する時代で、会う機会はほぼ同じであっても、この男女差が出る。

さて、前置きが長くなってしまったが、遊びがいかに男社会で重要かを書いた上で、自分がこれまでどんな遊びをしてきたか書いてみたいと思う。

遊びの代表格はなんと言ってもスポーツ。ヨーロッパであれば、夏はサッカー、冬はスキーが2大スポーツかなと思う。米国では、アメフト、ゴルフ、バスケ、野球などなどとにかく多くのスポーツがあるが、挙げた4つのスポーツがいわゆる米国4大スポーツとのことなので、テニスとか、ナスカーとかは惜しくも落選である。ロシアやカナダであれば、ホッケーが国民的スポーツである。インドネシアではあまりスポーツは盛んではなかったように思うが、バトミントンは人気のスポーツで、友達のインドネシア人の高校時代やっていたスポーツを聞くとだいたいバトミントンだった。ここで挙げたスポーツのなかで、アメフトとバトミントン以外はほとんど全て、迷惑かけない程度に出来る。決して上手くないが、例えばスキーであれば、上級者コースでも滑ってこれるし、ゴルフも下手ではあるが、コースに誘ってもらえるレベル。アイスホッケーはロシア時代に習っていたので、普通にスケートも出来る。その他にも水泳などもやってきた。そう考えると、様々な場所で色んなスポーツに触れてきたなと思う。そして、そういうスポーツを通じて色んな人と交流できたり、関係が築けた。それこそ、ゴルフなんかは接待ゴルフと言われるように色々あるが、私の個人的な感想では仲良くなるにはサッカーや野球のようなチームプレーのスポーツの方がいいようにも思う。

また、大人の男の最大の遊びは酒であり、つまり飲み会である。男はシラフで会えば強ばってしまうし、鎧をなかなか脱げないものだが、酒の力を借りて緊張を緩和して、ようやく話せるようになっていく。それでも器用に鎧を脱げる人とそうでない人もいるが、そこで今後の付き合いが変わっていくのが男社会。飲み会って大事だとつくづく思う。しかし、私はあまりお酒の飲めない体質なので、飲んだらすぐ眠くなってしまう。お酒の強い人への憧れがある一方、強くてもたくさん飲んだ後に悪酔いしたり、他人に迷惑をかける、または説教臭くなったり、妙に陽気になったり、そんな人よりは眠くなるくらいだからいいかなとも思ったり。ただ、心がけているのは、飲んでもなるべく普段と同じように会話が出来ること。酔いに任せた会話はしてもあまり意味がないので、お酒に弱いなりに努力しているところではある。

屋内の遊びと言えば、代表格はカラオケになるが、カラオケでなんか交友が深まったり、新しい友達が出来るというのはあまりなかったかもしれない。しかし、麻雀を覚えていると、かなり色んな人と深く交流出来る。特に、今の50代くらいの世代の方々は麻雀好きが多く、そういう人が誘ってくれる時には、麻雀出来る人、出来ない人でふるいにかけられるので、出来ると呼んでもらえて、しかも結構長い時間、雑談も沢山できるので、どんどん距離が縮まっていく。ただ、最近では麻雀人口がだいぶ減ってきているというので、麻雀はこれからはもう必要な遊びにランクインしないかもしれない。また、外国行ってから役に立つのが、ビリヤード。ヨーロッパやアメリカだとなんとなくたくさんあるだろうなと思うかもしれないが、意外にも、インドネシアにもレストランにビリヤードが置かれているところがあり、仕事終わりにみんなで行って、遊んでいた。ただ、インドネシアのレストランというのは基本的には吹きさらしというか、ドアや窓はなく、屋根だけあるスタイルなので、ビリヤード台もボロボロであまり正確なコントロールは必要とされなかったが。日本だと将棋が出来るとまた違った友情が生まれる。将棋が好きな人というのは、やはり頭がいい人が多く、私の中学校時代の将棋仲間のうちの一人はとにかく優秀だったのと、高校でも将棋好きは秀才が多かった。その流れでチェスも出来ると、面白い。ヨーロッパだと道端に大きなチェス盤があって、自由に出来たり、それこそレストランやホテルにもあるので、仕事仲間とやったり、取引先とかでもいいが、チェスは海外ではプレー人口が多いので、ルールだけでも覚えておいて損はない。

この他にも、男社会において知っておいて得する遊びはたくさんあるとは思うが、そんなに新しい遊びを習得する時間もないので、自分もこれくらいが限界かと思う。

まとめると、遊びというのは、シャイな男社会の友情の出発点になる。そして、やはりスポーツが一番入りやすいが、国や地域によって様々なので、全てを網羅するのは至難の業。頭の遊びでは、結局、将棋やチェスを挙げてみた。特にチェスはヨーロッパだけでなく、色んな国で浸透しているので、コミュニケーションツールとしては最適である。

以上が遊びについてである。

 

ジャニーズ問題について

私が小学生の頃、ジャニーズで言うとSMAPの全盛期で、とにかく人気があった。そこから、中学生や高校生になり、V6、TOKIOKinKi Kids、そして大学生で嵐が大人気になって、自分とジャニーズが深く関わったのは、なんとなくこれらのグループだった。

特にSMAPは曲も名曲が多くて、世界に一つだけの花は、自分の中でSMAPの後半の曲という感じだが、槇原敬之さんからの楽曲提供でSMAPの名曲の中で一番好きな曲かもしれない。スガシカオさんの夜空ノムコウ、そしてオレンジなどのバラードも良くて、でも、シェイク、がんばりましょう、青いイナズマなどSMAPの前半の曲はリアルタイムで本当によく聞いていた曲だったので、あの頃の思い出とリンクしてて、懐かしい思い出がいっぱい詰まっている。ただ、SMAPというのは曲よりも、バラエティやドラマの印象の方が強くて、スマスマとか、うたばんとか、よく観ていたし、キムタクのドラマはずっと名作ばかりだった。

そして、V6になると、妹が大ファンで一時は家に写真やら雑誌の記事やらが溢れるようになっていたので、自ずと詳しくなってしまった。特に、ビデオとかも買って観ていたので、メンバー一人一人のキャラクターなども本当に詳しくなっていた。とにかくV6はジャニーズの中で一番個性が際立っているグループなのではないか?と思う。今、副社長になっているイノッチは昔から全然変わってなくて、好感が持てるし、森田剛岡田准一ももう少し明るく元気だったかなとは思うが、基本的にはあの頃のままという感じ。坂本君は若い頃フリートークが苦手なイメージがあったが、とにかく歌が上手くて、結局ミュージカルで活躍することになって、ぴったりだなと思っていた。長野君は白石美帆さんと結婚、そしてすっかり家庭人になったイメージで、それも若い頃から何となくそんな家庭的なイメージがあったのでとてもしっくりきていた。三宅健は実は一番変わり者だったような気がしていて、掴みどころのない性格だったが、自分ではそれを意識していない感じで、今でもなんかそのまま大人になったなぁという感じ。

TOKIOはとにかくカッコ良かった。長瀬君のボーカルはもちろん、太一君のキーボード、松岡君のドラム、山口君のベース、そしてなによりリーダーのギター。ジャニーズの中で一番楽器が上手かったバンドじゃないかと思う。TOKIOはバンドだったので、当時自分がバンドブームの中で多くのバンドに憧れて、それこそGLAYだとか、L’Arc~en~Cielだとか、LUNA SEA、今でも大活躍のミスチルやB'z、サザンオールスターズ、そして以前記事にもしたシャ乱Qがいた時代にTOKIOもいて、ジャニーズというくくりではなく、バンドとして見ていた記憶がある。その後、リーダーと太一君はバラエティでよく見かけるようになって、長瀬君はドラマという個々の才能は活かしつつ、でもやっぱりバンドやってるTOKIOが大好きだったなと今でも思う。

KinKi Kidsは何と言っても、LOVELOVEあいしてるという私の中での伝説の番組があって、とにかくその番組でKinKi Kidsにハマっていった。番組の構成も、キャスティングも良くて、吉田拓郎さんがKinKi Kidsを育てていくみたいな流れがあって、彼の破天荒さと優しさ、そして音楽への造詣の深さが際立っていて、最後にやるLOVELOVEALL STARのバンド演奏がまた素晴らしくカッコ良かった。KinKi Kids自体は正直、全てが揃っていた二人という感じ(歌が上手くて、トークも面白くて、ドラマも出来て)で、あまり好きにはなれなかったのだが、この番組を通して好きになった。数あるいい番組の中でも、この番組は本当に色んな奇跡もあり、いい番組だったなぁと思う。

そして、最後は嵐。嵐が好きな理由としては同世代というのが大きい。なんか一緒成長してきたというか、憧れというより、同期という感じのメンバーで、二宮が結婚した時は、友だちの結婚を祝福するような気持ちになったことを覚えている。とにかく嵐は人気があって、ジャニーズの中でもファンの数は一番多かったんじゃないかなと勝手に思っている。ファン数というのは正確には分からないだろうから何とも言えないが、海外でも人気があるのはやっぱり嵐かなとも思う。キャラとしては、大野君が面白いし、ただキャスターとしての桜井君はあんまり好きじゃなかったというか、少し作られた感じがして、もう少しのびのびというか、自分の色を出して欲しかったなぁと。

少し前置きが長くなってしまったが、そんなジャニーズのファンとして、最近のジャニーズの動きは悲しい。

一番悲しいのは性被害が本当にあったということ。今までまことしやかに噂されていたものの、今のように大袈裟に騒がれることもなく、そういう話が出ても、そんなわけないじゃん、という感じで私も信じてなかったし、今程報道もされなかったので、深堀りも出来なかった。しかし、最近BBCという海外メディアが報じてから、一気に情勢が変わり、どんどん被害者たちの声がマスコミに取り上げられるようになり、日本のメディアは堰を切ったように報道するようになり、ジャニーズ事務所は一気に追い込まれた。

その中で悲しいなと思ったことは、ジャニーズという組織のなかで、そのタレント達が故人ジャニーさんからの性被害があったことを、本来はタレントを守るべきスタッフなど内部で黙認していたことだ。亡くなってしまったジャニーさんを今更悪く言うのは、すでに弁解の余地のない人に対して申し訳ないので、色々言いたくないが、それこそ藤島ジュリーさんとかは知ってたはずだよね、と思うと悲しい。

しかし、この問題、諸悪の根源は日本のマスコミなんじゃないかと、考えるようになった。性犯罪を犯してしまっただろうジャニーさん、それを黙認していた周囲のスタッフ、そして今、それが暴露されたからと言って、一気に大騒ぎをするマスコミ。しかし、藤島ジュリーさんらが仮に、当時の性被害があったことを知ってたよね?ということで、ジャニーズ事務所が隠蔽したというなら、同じく当時、たくさんの告発者がいたにも関わらず情報を抹殺していたマスコミも同罪なんじゃないかと思ってしまう。

正直、一般市民はマスコミが報道しないと何も分からない。今でこそSNS など個人が公に情報や意見を発信出来るから昔よりは幅広く情報が手に入るが、やはりマスコミが騒ぐか騒がないかは、大きく違う。そんな前提で考えると、今から何十年も前に性被害を告発した人はいた。それこそ、私がSMAPやらTOKIOやらに魅了されている時でさえ、そんな勇気ある告発者がいたが、一切我々には知らされていなかった。救いを求めてマスコミに駆け寄っても、相手にしてもらえなかった。私はこれが被害を拡大させた主な原因だと思っている。やはり、ダメだと分かっていても身内だと言えない、身内だから守りたいという気持ちがあることは百歩譲って理解出来ても、マスコミが当時今程騒がなかったことは罪深いと思っている。さらに馬鹿げているのは、海外メディアが報じてから、少しずつ一社二社とそれを報道する機関が増えて、今やジャニーズが会見を開くと、全員で鋭い質問をして責め立てるという始末。マスコミは力、権力とも言える。何を報道するか、については正直、報道する側が決めていいので、当時信憑性に欠けていたから報道しなかったが、今は事実であることが分かったので報道してる、と言ってしまえばマスコミは法律上は何も悪くないが、実際のところは、当時はジャニーズ事務所に忖度して言えなかったが、海外メディアが切り込んできて、ジャニーズの求心力も下がってきたので、今なら攻撃しても大丈夫だからやってる、という感じがしてならない。つまり、長い物には巻かれつつ、弱くなったところを一気にそして全員叩く、という、それはまさに、イジメの構図。これを見て、こどもにイジメダメとかよく言えたものだと思う。

ジャニーズ事務所はいい事務所ではなかったことは認めるが、ジャニーズ事務所解散とか、名前の変更までしなくても、とファンとしては思ってしまう。特に、そのタレント達まで批判の対象だったり、契約を破棄されたりするのはなんか違うようにも思う。むしろ、ジャニーズが勢いのある時に、不正を暴き、立ち向かって行くことはなくて、その巨人が虫の息になったところにみんなで踏み潰しに行くマスコミ達にこそ解散してもらいたい。今、ジャニーズ事務所が大変な時だから、逆に今はジャニーズを救おう、と行動してるのは一部のファンのみ。罪は罪として、でもそこにいる才能溢れた、夢を追いかけるタレントを救えるのもマスコミだが、今助け舟を出せば犯罪者を擁護したとまた仲間外れになるからやりたくないのかもしれないと、躊躇してるどころか、今はジャニーズ叩きが正なので、それを必死やるだけか。そんなマスコミは必要ないが、今の日本には、そんなイジメしか出来ないマスコミしかいない。

それは政治への記事でも同じ。強い人には迎合し、弱い人はとことん攻撃する。政治を監視し、国民のために報道するのが本来のマスコミであり、特に受信料を取ってるNHKはそうあるべきだが、率先して強い者の代弁者、弱者の敵という役を全うしている。

私はジャニーズがこれまでやっていた犯罪は犯罪として法に基づいて、情に寄り添って、被害者への賠償と謝罪、そして再犯の防止を誓い、償ってもらいたいが、それと同時に罪のない若い才能を救って欲しいと思っている。新会社のスマイルアップでそれが出来るなら良いが、また馬鹿なマスコミに足を引っ張られないことを願っている。

 

 

四十にして惑わずについて

これは、有名な論語の一節で、これを習ったのは、中学生だったか、高校生だったか、とにかく自分が四十歳になる事なんて想像も出来なかった時だった。

そして、あれから時を刻み、先日、めでたく四十歳になった。一番大きな変化は、結婚し、子どもが産まれたことかなと思う。仕事もなんとか続けていて、マイホームも購入して、家族もみな健康で、さしあたって、これという悩みも少ない。このまま時が止まればいいなと思う四十歳を迎えられて、とても幸せであると実感している。

さて、四十にして惑わず。これは、もう流石に四十年間も人間をやってきて、色んな経験をしたり、周りの人々や文献などから人生の知識を得たり、それこそ自分とは何かという問いかけにもそれなりの回答を持ったであろう年齢なんだから、今更戸惑うこともないだろう、とまぁ、こんなことなのだと思う。

これの前は、十五にして学に志す、三十にして立つ、つまり、若いうちに勉強して、いい歳になったら立派な社会人になれ、というようなことだろうと思うが、これは単純に行動に対する指南なので、勉強すればいいし、しっかり働けばいい、ということになるが、四十になって惑わず、は、急に抽象的になり、これまでどう生きてきたか、何を考え、何を目標にしてきたのか、そんなことの集大成、特に精神面での成長を問われているような気がして、それこそ、やっとここからが一人前の人間になった、というか、なるべきなんだと、そういう教えにも思えた。

そして、四十歳の自分は、どんな自分なのか、また、自分は惑わずに生きているのか?そんなことを考えてみたいと思った。

自分はこの四十年間で、何か財産を持っているかと問われると、目に見えるものでは、借金まみれの家と車。どちらのローンも払いながら、奨学金の返済も終わっておらず、それに生命保険、学資保険を払い続けて、僅かなお金だけが残る生活で、財産なんて呼べるものはほとんど持ち合わせていない。また、資格とか肩書とかも、もっとあればいいのになとも思うが、自動車普通免許とか、運良く取れた電験三種くらいなもので、人生の糧になるものは無い。

ただ、以前にも書いたように、家族や友人にはとても恵まれていて、それは何よりの財産であると思える。

また、この記事を書こうと思った最大の動機は、四十にして惑わず、について考えた時に、考えが固定化されたというか、悪く言えば頑固になり、新しい考えを取り入れようというより、これまでの人生や知識などから自分の好みの考え方というのがあって、それに従うことが多くなった。特に思うことは、考えることが固定化することよりも、自分が受け取る情報が固定化しているということだ。気に入らない情報に触れても気に留めないし、考えもしないが、自分と同じ方向の情報ばかり読み漁るようになってしまう傾向が強くなったように思う。

そして、そんなことを色んな人に話してみると、面白い意見も返ってきた。

そもそも論語の時代の平均寿命は今よりもずっと短いはずで、50歳くらいでは?と仮定して、今が人生100年時代と言われてるので、約2倍、つまり今に置き換えれば、80にして惑わず、でいいのではないか?と言われた。

となると、そんなに今、自分自身何かに定まっていなくても焦る必要はないのかなとも思うと同時に、考え方や情報収集の固定化もまだまだ早い気もしてきた。

40歳になって、もうすでに3ヶ月が経ってしまったが、これまでのように、私の周りの人たちがみんな、とにかく健康で、元気に明るく、平和に生きて欲しいと願うばかりである。

 

 

 

友達について

数ヶ月前の話にはなるのだが、とある二十代の知り合いから面白いことを聞いた。

彼は友達が100人以上いるが、リア友は5人くらいだと言う。

友達とリア友。

まずはこの定義が分からず、どういうこと?と聞いてみると、友達というのはSNSを通じて出会った友人で、リア友というのは、例えばバイト先だとか、高校や大学での友人ということだった。

私の年代やさらに上の世代だと、この定義に沿うと、リア友しかいないということになると思うが、SNSネイティブ世代にとっては、SNS上の友達がいることが当たり前のことのようだ。確かに、最近では婚活もSNSで相手を探すということが多くなってきたようで、友人の中でもSNSから出会って結婚に至った人もいるので、遠い世界の話ではないようにも思うが、私には想像出来ない世界であった。

よって、彼に、どうしてリア友ではなく、友達(SNS経由)の方が多いのか?と聞いてみた。すると、リア友というのは、自分が会いたくて会ったわけではないし、趣味も分からないし、自分の事も知らないし、話しかけても仲良くなれる気がしない。しかし、友達は最初から趣味が合うことを確認してるし、友達になりたいとお互いに思って友達になっているので間違いはない、と言うのだ。 

確かに、SNSで知り合う時には、お互いの大まかなプロフィールを事前に公開していたり、またはそもそも共通の趣味、例えばゲームなどに参加していたりすることで、いきなり共通の趣味を持った気の合う人を探し出せる。最初にこの話を聞いた時にはカルチャーショックを受けた。そもそも私は色んな場所で生きてきたので、カルチャーショックなんてもうあまり体験しないと思っていたが、同じ日本で、それも10歳程しか離れてない世代から受けるとは思ってなかった。

とにかく彼の話を聞いてから、しばらく反芻する必要があった。リア友だけがやはり友達だ、とか、彼の言う友達は偽りの友人だ、とか、なんとなく彼の話を否定するような考えも浮かんだが、同時に、効率的な方法だなとか、一緒に何かを楽しむのが友人だとすれば、こちらの方が正しいやり方なのかな?とか、肯定というか、理解というか、そういう考えも浮かんできた。

しばらく、そんなことを考えながら、この話を色んな人にしてみた。

予想通りというか、世代間で反応はだいぶ違った。私の世代からすると、やはり私と同じように驚きが最初にきて、そんな時代なんだね、なんて言ったりもしていたが、しかし、一部の人は昔mixiで似たようなことしてたかも、という反応もあった。mixi、懐かしい!

Facebookよりも使い勝手がよく、学生時代はよく使っていたが、どういう理由か分からないが、いつの間にか下火になって、みんなFacebook をやり始めた。何かの陰謀かなとも思うが、よく分からない。また、親の世代に話してみると、そもそも話が通じない人が多数。Instagram とか、オンラインゲームとか、Twitter とか、使ったことがないので、そもそも想像ができないとのことで、世の中の動きの早さに驚かされる。

そして、私より若い世代の反応はといえば、普通ですよ、という意見と、(最初にこの話をしてくれた彼が)ちょっと特殊では?という意見があった。確かに、彼の友達とリア友の比が極端過ぎて、普通は半々とか、リア友の方が多いくらいだという。それにしても我々の世代からは驚きなのだが。

まぁとにかく自分で考えることと、色んな人の反応を聞いているうちにだんだんと自分の中でこの話に自分なりの結論を出すことが出来た。

まず、最初から趣味の合う友達とだけ会おうとする態度であるが、一見理に適っているようにも思ったが、私の実体験というか、学生時代を終え、社会人になってからのことを考えてみると、いわゆるリア友との付き合いを上手くしていく方が重要なのではないかと思えてきた。

例えば、仕事。会社内の人間関係なんて自分で選ぶことは出来ないし、基本的には仕事は社外の人とやることが多いので、それこそプロジェクトが始まる時はみんな,"はじめまして"と言って始まり、顔も性格も趣味も全く分からない人と突然仕事を始めることになる。しかも、利害が常に一致するわけではないので、その調整は困難を極める。また、家族が出来て、子どもが産まれ、幼稚園、小学校になると子どもを通じた親同士のやり取りがとても多くなる。それは悪名高いPTA活動だけではなく、遊ぶ約束をしたり、何かを頼んだり、頼まれたり、それが一人二人ではなく、先生も含め、習い事関係やら、ご近所関係やら、とにかく色んな繋がりがあるので、とにかく数は多くなる。子どもが上手く溶け込んだり、活動出来るためには、とにかく見えないところで、環境作りをしてあげることはとても重要になる。

こんな感じで、仕事や家庭の中では、知らない人とどう関係を築き、付き合っていくのかというスキルはかなり求められるので、学生時代からリア友をどう作るか、または、趣味や趣向、性格や考え方、価値観が合わないなかでも、上手くやっていくスキルというのは、仕事でもプライベートでも、社会人になると必要になる。

また、例えば結婚をすることを考えると、同じ人とずっと生きていくことになる。先程も書いたように、最近では結婚相手すらSNS経由というのが珍しくないが、出会いは出会いでどんな形だっていいのだが、長く連れ添う中で、当然色んな問題が起こり、感情の起伏や状況の変化で、人は変わってくる。つまり、同じ人とずっと一緒にいても、自分も含めて、その人の性格なり、考え方なりは変わってくる。それこそ、また新しい人と出会ったような変化を経験することだってある。そんなときにも、色んなものを受け入れて、上手くやってきた経験というのがある人とない人では、家庭を維持出来るかどうかに差が出てくると思う。

また、これは少し精神論的な話にもなってしまうかもしれないが、簡単に手に入れたものって、簡単に手放せてしまうが、苦労して手に入れたものはずっと大事に出来るという側面もあるような気がしている。

私はリア友しかいないが、主に中学校、高校、大学、あとはアルバイト関係など、40歳になってもまだその頃の友達との繋がりがある。それはきっと、たまたま集まったメンバーではあるが、苦楽をともにしたり、それこそ何も知らないところから少しずつ関係を構築していった過程があって、友情を深められたからこそなんじゃないかなと思う。そういう友達は困った時にはお互いに助けられるし、絆みたいなものがある。私は常々、友達に恵まれていたなと思うが、それもまたきっと、自分なりに努力した結果なのかもしれないと、このリア友の話を聞いてから思った。

手軽に趣味などを通じて出会ってから、深い友情を築くことも出来るが、このように出会った場合、もしどちらかが趣味を変えたら、そもそもネットとかでしか繋がっていないので、関係は終わってしまうし、同じ趣味を続けていても、何かで関係がこじれたらブロックして終了、ということも多いだろう。しかし、同じ空間にいる場合、特に私のような寮生活だった場合、または長いプロジェクトで辺境の地に限られたメンバーでいる場合は、手軽にブロックなんて出来ないので、関係修復を否応なしに求められる。すると、雨降って地固まるではないが、本当にそんな感じで、また深い絆になっていく。

そうやって築けた友情というのは本当に一生ものになっていく。何でもそうだが、簡単に手に入るものは、簡単に捨てられるが、必死に頑張って掴んだものは、財産になっていく。お金だって、楽して稼いだり、ズルして手に入れたら、悪銭身につかずではないが、結局なくなってしまうが、頑張って働いたお金は大切に使われたり、能力もまた、生まれ持った才能自体はあっても、それを無駄にするか、活かすかは、その後の努力次第だったりもする。そして、友情も同じだと、私は思った。SNSで手軽に手に入る友情は、言ってみれば、生まれつきの才能のような、苦労を伴わないプレゼントのようなもの。それはそれで、とても有り難いし、そこからお互いに信頼できる、または助け合えるような友情に変わっていけばいい。ただ、こんな手軽な友情を謳歌して、仲を深めることをせずに使い捨ての友情になっていくんだとすると、やはり本当に大事なのはリア友ではないかと思う。リア友は確かに関係を築くのは難しい。そもそも話すキッカケを探すことだけでも大変で、さらに嫌われてたらどうしようとか、自分のことどう思われるか不安だとか、とにかくそんなことばかり考えてしまって面倒であるのは間違いないが、その一歩に苦労するからきっと本物の友情になっていくのだと思う。

よく古い友人と久しぶりに会うと、出会った時の事を思い出す。第一印象はこんな感じだったとか、話してみてこうだったとか。そして、楽しかった思い出とか、対立してしまった思い出もあったり、でもそんなことの全てが、いい思い出になるから、人生って面白い。嫌なこととか、その時はそう思うが、必死に、真剣に向き合って一生懸命やると、辛い事でも、苦しいことでも、いい思い出になっている。だから、バカ正直に一生懸命やることって大事なんだなと思う。

ふと聞いた”友達”の話から、だいぶ逸れてしまったが、私はとにかく周りの家族や友人に恵まれ続けているので、家族はもちろんだが、多くの友人への感謝はしてもしきれない程であり、幸せな人生だと思う。

 

 

異次元の少子化対策 part2

前回、異次元の少子化対策について、半分批判を書いて、半分アイデアを書いてみた。

今度は、もう少し違う視点で書いてみたい。それは、少子化が問題か否かとか、子育て支援のあるべき姿とか、そんなことはさておき、そもそも少子化の原因は何か、そしてそれを是正するにはどうすればいいのか?という点にだけ絞って書いてみたい。

https://youtu.be/eLpwNP69FS4

このリンクをつけてしまうとそれまでかもしれないが、今の制度や風習、またはモラルなどを維持しながら、生まれてくる子どもを増やしたい、ということを考えるなら、結局、結婚する人が増えること、そしてなるべく若くして結婚すること、が手っ取り早いのは明らかである。

まずは、結婚する人を増やすにはどうすればいいのか。一昔前であれば、かなり周囲からのプレッシャーや親が無理矢理結婚をさせたり、本人達の気持ちを二の次にした形での結婚も多数あり、成婚率は高かったかもしれないが、幸せな結婚だったのかは疑問が残るので、一昔前のやり方に戻すというのは考えにくい。

よって、以前に書いた、恋愛と結婚というタイトルのブログが、未だに私の答えである。

次に今度は晩婚化をどう是正するか、である。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f2829ac79684007b4ddb4575b6da7ce9e70a4bd2

これも、山口真由さんの記事を貼り付けてしまうが、とても興味深いので、読んでみてもらいたい。

以下抜粋。

「私はもう少し早くに、自分がキャリアとライフをどう両立させるつもりなのか考えておけばよかったなと思っているんです。若い頃は転職や留学など、そのときどきで自分のキャリアを確立するのに精一杯で、どうしてもライフ──とくに子どもを持つことが後回しになりました。でも、同期の男性たちはそういうことをあまり考えずに仕事に邁進している。男女平等といわれて育ち、学生時代は自分が男性に劣っているなんて感じたことは一度もなかったのに、生殖年齢については圧倒的な差がある……。そういうことを女性は20代30代で認識して、将来を考えておくべきだと思います。 さらに、私は最初こそ『卵子凍結によって人生の選択が自分の意のままになる』と楽観視していたけれど、実際に経験してみると『これはこれでキツイな』と思うところがありました。だからこそ、そういう自分の失敗談を後輩の女性たちに伝えておきたいと思ったんです。卵子凍結をおすすめするつもりはありませんが、将来子どもを持ちたいと考えているならAMH値くらいは測っておいたほうがいいよ、って」

抜粋終わり。

多分、今の医学だったり、人間の身体が劇的に進化しない限り、男女ともに妊娠のしやすさというのは、やはり若い時期、特に20代であることは抗えないのかもしれないが、それを大々的に言うことは問題視されているなかで、山口真由さんは堂々と自身の経験を踏まえ発信されていた。ただ、考えないといけないのが、高齢出産は妊娠や出産だけに障壁があるわけではなく、子育てや介護にも大きな影響が出やすいとされていることも理解する必要がある。以前、とある地域に遊びに行った時に、ここではみんな40後半でおじいちゃんだよ、と言われてびっくりしたのを覚えてる。まだみんな若くて、健康そのものでおじいちゃん、またはおばあちゃんになるということは、当然孫の面倒はみれるし、70代でひ孫もみれるという幸せな人生になる。逆に親子二代で高齢出産をすると、初孫が80代というのも珍しい話ではなく、40代で子育てと親の介護の両方をやることになる状況も考えられる。いくら今の80代が元気とは言え、40代のおじいちゃんとは比較にならないだろう。

では、晩婚化の原因は何だろうか?そして、国はどんな支援をしていけばいいのだろうか?

まず、考えるのは結婚する相手がいて、気持ちとしてはいつでも結婚出来るのに踏み出せないケースに絞って、何故踏み出せないのか、考えてみたい。

一番の理由は経済力の不安であろう。例えば、浪人せずに大学に入り、そのまま就職すると23歳から社会人であるが、その段階ではまだ家族を養える給料をもらえてないし、貯金なんてない人が多いので、結婚資金、新婚旅行、ましてや子育て、さらに新居の費用などなど、とてもお金が足りない。しばらく社会人として働き、お金を貯めること、そしてそれなりの収入を確保するまでは結婚に踏み切れないという状況である。

次はキャリアの問題である。結婚したり、さらに子どもが出来ると、当然仕事に費やせる時間は減ってしまう。一昔前までは、男女でこの状況は違って、男であれば子育ては妻に任せて今まで通り仕事に精を出すなんてことも出来たのかもしれないが、今は男女ともに育休制度があり、性別に関わらず子育て期間中には他の人と同じようには働けない。となると、必然的にキャリア形成、特に社会人になりたての5年くらいの大事な時期に結婚に踏み切れないというのは理解出来る。

つまり、お金とキャリアがクリアされれば、結婚出来る相手がいる、という前提であれば結婚を踏み止まることなく、早期に結婚出来るカップルが増えるのではないだろうか?そのためにはどうしたらいいのか?答えは簡単、就職を早めればいいのである。

私は社会人10年以上やってきて思うことは、多くの職業、特に一般的なサラリーマン、公務員などなど、大学または大学院での勉強が必須である職業というのは少ない気がしている。もちろん、大学が完全に不要かと言えばそうではないのは分かっているが、高校までの知識で十分、社会人として活躍できると確信しているし、逆に大学で学んだことが社会で活かされてるケースはあまり多くないとも感じている。よく研究者は大学院まで言って企業の研究開発に就職した方がいいと言われるが、それにしても、高卒で企業に入り、そこで仕事を通じて学びながら一人前になる方が近道である。企業は大学ほど教育出来ないとも言われるが、私の印象では、大学の教授より、企業の上司の方が説明は分かりやすいし、教え方や導き方は丁寧だと感じている。

文学部であったり、理学部であったり、そこで学ぶことはとても専門的過ぎて、そもそも小学校で習うことですら大人になってからその知識は必要なかったとか言う人もいるくらいなので、大学の勉強なんて尚更なのである。もちろん、医者や弁護士、教師や学者などの職業を目指す場合は別だとは思うが、社長とか、クリエーターとか、商社マン、とにかくほとんどの職業はわざわざ大学に行く必要はない。

しかしながら、例えば東大や早慶などの一流大学の出身者が他の大学の出身者よりも仕事出来ないことがあるのか、ということについてはNOであると思う。やはり、一流大学出身という肩書のある人は仕事もよく出来ることはほぼ間違いない。しかし、ここで言いたいことはそういう肩書を持てる人というのはそもそも能力が高く、それは大学の4年間または大学院も入れた6年間で培われたものというより、元々の能力であると思っており、それであれば、大学ではなく、企業で、または社会で仕事をしながらスキルアップした方が効率が良いと感じる。それこそ、現代においては終身雇用は廃れてきており、転職が一般的であることを考えれば、高い能力のある人がどんどん流動的に適材適所へ動けることになれば、日本経済全体としても良いし、早くから働くことで労働人口も増えることになる。

また、早く就職することのもう一つのメリットは親の学費負担が減ることである。大学の学費は高額であり、年金問題を抱える親世代(団塊ベビー以下)は、戦々恐々としている。しかし、高校までは無料化の流れになっているので、高卒で働いてくれることになれば、老後の心配がかなり軽減される。ともすれば、新しく子どもを計画している家族にとっても、教育費の心配がなくなるので、産みやすくもなる。

よって、異次元の少子化対策というのであれば、社会として政府主導で、大学へ行くのはごく限られた職業を目指す人のみで、ほとんどの企業は高卒で雇うように促すというのはどうだろうか。社会に出て思うことは、社会人の価値は、学歴ではなく、職歴であり、学生時代にどこで何を学んだかというのは、その人も何となくのポテンシャルが伝わる程度であり、実際社会人として、何をやってきたのか、これが本当のスキルを測る指標になる。

また、キャリア形成も18歳から働けば5年目を25歳以下で迎えられ、若くして、十分なキャリア形成が可能になる。

次に、若くして結婚すると、難しいのが家の問題である。就職してすぐに結婚したとしても、今度は住む場所には困ってしまう。一番いいのは、親との同居であるが、今はそんな大きな二世帯住宅に親が住んでいるというケースもあまりなく、また子どもが上京して家庭を持つことも多いので、なかなか難しい。よって、賃貸か購入かという話にもなるが、どちらにしても経済的な負担は避けられない。

また、今は少子高齢化が進み、日本の人口は減少傾向にある。よって、空き家はどんどん増えていることになるが、何故か新築マンションやら、新築一戸建てもどんどん建設されている。これは日本人の新築好きからくる現象なのかもしれないし、政府の思惑なのかもしれないが、どっちにしろ、中古物件として出回ることより、空き家として放置されがちなのである。

このような空き家は大抵、処理に困り、地域の治安や外観にも悪影響があったりもする。よって、政府が二束三文で買い取り、または持ち主不明なら強権発動で没収してしまい、新婚夫婦にプレゼントするというのはどうだろうか。

システムとしては、日本全国の空き家を政府が買い取りしたり、没収したりして、大きなデータベースを作り、例えば男女のどちらかが25歳以下であれば、その空き家から好きなものを選んで、タダでもらえるようにする。また、もらったものなので、もちろんリフォームやら改造は自由だし、その後売却も可能だが、売却した場合、例えそれがまだ25歳以下の新婚であってももう一度空き家をもらうことは出来ない。

このシステムなら若くして結婚しても、家の心配はなくなるので、またハードルが下がるし、同時に日本の空き家問題の解決にも繋がる。ただ、建築業界や不動産業界からは反発があるかもしれない。しかし、空き家を渡すことでまず家の良さに気が付き、家計に余裕が出た段階で新築物件に憧れが出てくるということも考えられるので、むしろ今より活況になるのでは?と考えている。また、これにより結婚を選択するカップルが増えれば、当然子どもも増えてくるはずなので、人口増加で建設業界、不動産業界は沸くはずなので、反発は最小限に留まると考えている。

さらに、空き家は東京など首都圏にも多いが、地方都市にもたくさんある。今は空き家バンクだとか、地方への移住を促進するための補助付き空き家販売なども行われているので、そのような既存のシステムと政府主導での空き家プレゼントが互いに協力し合えば、地方活性化にも繋がっていくのではないかと考えている。

よって、異次元の少子化対策として、中卒、高卒で社会に出ることを推奨し、若い新婚カップルには、お好きな空き家をプレゼントするという対策はどうだろうか?