お土産について

それなりに人生を歩んでいると、色々なところへ行っては、お土産を買って帰ってきたり、または誰かからもらったり。

そんなお土産の中にはもちろんお別れするものもあったり、いつの間にかなくなっていたり、壊れてしまったり、そんな危機を乗り越えてなお、私の元にあるお土産達をちゃんと整理して、飾ろうということでやってみた。

まずは完全図から。


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意外にもちゃんとまとまった。

もちろん、ここに入りきらないメンバーもいたが、8割くらいはちゃんと収まった。

これは単に箱に入れたわけではなく、それぞれお土産たちの出身地に合わせて入れてある。

ここから、個別に紹介していく。   

ケースに収まっていないものとしては、セントルイスカージナルスのワールドシリーズ優勝記念ボール、ルイビルスラッガーのお持ちバット、ハワイのアロハ木彫り、ベトナムの紙模型。

これらはまた別の展示方法を考えたい。

 

 

ヨーロッパ編。


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フランス、オランダ、ポルトガル、イギリス、ドイツ、オーストリア、デンマークのお土産が並ぶ。このあたりは全部、高校生までに集めたもので、とても古いものばかりである。

オランダの木靴やビートルズなんかは味わい深い。目立つのがTirolであるが、これは毎年家族旅行で行ったスキー旅行のお土産で、オーストリアのチロル地方である。デンマークはどれだ?となるかと思うが、それは右下のバイキングオジサンのキーホールダー。

 

ロシア編
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そして、ロシアは単体で歴代大統領のマトリョーシカ風人形。これは以前の記事でも紹介済だったような。

 

レーニンからプーチンまで、キャラの濃かった大統領コレクション。

これを買ったのはもう20年くらい前になるが、いまだにプーチンが大統領というのがすごい。

 

 

USA編

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グランドキャニオン、イエローストーン、ラスベガス、テキサスブーツなどだが、実はアメリカ合衆国の場合には、以前の記事に書いたアメリカの思い出についてやMLBについてで触れているマグネットと野球帽コレクションがメインで、このような小物はあまり持ってなかった。

ラスベガスのカジノコインが面白い。その後ろのお城の様な建物は、ビルトモアというテネシー州にある豪邸で、数多くの豪邸があるアメリカにおいて、一番の豪邸とも呼ばれていたもの。

 

南北アメリカ大陸編
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南北アメリカとしては、北はカナダで、中南米としてメキシコとブラジル。

あまり多くのお土産はないので、これくらいだが、ブラジルはまたいつか行ってみたい。

 

そして、中東。
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UAEとサウジアラビア。

キラキラしたお土産が目を引く。

やはり中東はモスクと砂漠のイメージである。ジェッダはメッカの入口の街というだけあって、国際色豊かな近代的な街であった。

 

アジア編


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こちらは社会人になってから行った国ばかりで、自分の人生の中では新しい国々ではあるが、ヨーロッパよりはアジアの方が暮らしやすいという気がする。とにかく東南アジアはどこも活気があり、日本の昭和の雰囲気が漂う。

前例は、インド、ベトナム、タイ、シンガポール。

後列は、中国本土、インドネシア。

そして上段に、香港、台湾と並ぶ。

 

世界はどんどん狭くなっている。昔の人が大阪まで行くような感覚で、今は簡単に海外へ行けてしまう。中東やヨーロッパまでも直行便で行けることを考えると、世界はとてつもなく、小さくなっている。

また、ネットの中には、色んな地域の色んな情報が溢れ、行かなくても分かる、行った気分になれるほど、簡単に色んな情報にアクセス出来てしまう。私が子どもの頃、外国の事を知ろうと思うと図書館へ行き、本を借りて読むか、旅行ガイドブックを読むか、またはテレビでやってるのを観るか、そんな情報しかなかった気がする。

そんな現代において、旅とは何か。つまりは、疑似体験が簡単に出来るツールがあったり、情報が溢れていたり、それこそ私が集めているようなお土産なんて、日本から出なくても手に入るものばかりであると思うので、益々、わざわざ行かなくても良いと言う気持ちになってくる。

ただ、旅が好きな人、特に海外旅行が好きな人達は、旅の意味を色々と教えてくれる。

まずは、非日常体験である。普段とは違う人々と会い、普段とは違う食べ物を食べ、普段と違う景色の中で生活すると、普段の生活で感じる閉塞感や、単調で退屈な、そして疲労感漂う日常からの脱却という意味では、海外旅行というのは、いいのかもしれない。

また、趣味を楽しむという目的もある。例えば、大谷選手を観に米国のMLB観戦、ミュージャンや俳優などのショーだとか、美術館や歴史的建造物、または体験として、スキーやスキューバダイビング、などをやりに行くというのもある。もちろん、食べることが好きな人は色んな本場のグルメを堪能する楽しみもある。

私が旅することが好きな理由。それは、自分と向き合えるからだったりする。どういうことかと言えば、普段の生活において、自分が毎日小さい選択を繰り返して生きているが、それに対していちいち理由は考えない。例えば、朝ごはんを食べること、会社に行くこと、改札を通り、電車に乗ること。仕事が終わって、帰宅すること、夕食を食べて、風呂入って、歯を磨いて寝ること。ほぼ全てが特に考えることなく、選択して、実行して、時が流れて、1日が終わる。しかし、旅をしているとそうはいかない。朝起きると、まず朝食をどうするか考える。食べる?食べない?、食べるなら、どこで何を食べる?、食べないで、1日過ごしてみると、案外普通に過ごせたとか、新しい発見があったり、さらに、街に出て歩いてみて、色んなことを考えてみると、自分って意外と几帳面だなとか、計画性がないなとか、安全思考だなとか、逆にリスクを取りたがるなとか、新しい選択をたくさん迫られる中で自分がどのような選択をしたか、客観的にみてることで、自分自身をよく知ることが出来る。また、自分の変化にも気が付く。若い頃はこんな選択はしなかったなぁとか、そしてそれはどうして変わったのかなぁとか。体力のせいか、経済力のせいか、そもそも信じる哲学が変わったのか。

翻って、人のことは良くわかる。それは特に内面などは気にせず、つまりその人の過程は全く知らないまま、純粋にアウトプットだけを分析出来るから冷静な視点で評価したり、分析したり、そんなことが比較的容易に出来る。

ただ、自分のことになるとどうか。色んなことを気にして、あれこれ悩み、時に積極的だったり、消極的だったり、本当に多岐に渡る自分がいて、でも、そんなことにすら、ルーチンの中では気が付かないことも多いし、自分とは?なんて考えもしない日々がずっと続く。

しかし、旅の中での一挙手一投足は、新しい選択の連続で、たくさんのサンプルがあることと、それが新しいものばかりであることから、そこで出た答えを集めていくと、何となく自分が見えてくる。それは自分が他人を評価していた時のような感覚で自分を見ることが出来るので、普段の生活ではなかなか出会えない自分と出会える。

私からすれば、観光そのものにはそこまでの価値はないものの、観光に向かう過程、観光する場所を決める過程、どのようにそこを目指すのか、そこで何を感じるのか。そんな感じで、自分とは何か、選択を通して見いだしていく。

お土産はそんな自分発見の思い出と結びつせてくれるツールなのかもしれない。

 

 

 

ロシアから見た世界について

ウクライナとの戦争はなかなか終わらない。

その影響で、ロシアは残虐な国として、日々ニュースになり、我々はどうしてもそう思い込んでしまうが、自分の身をロシアに置いて考えてみると、ちょっと違う世界が見えてくると思うので、ご招待したい。

以前にも書いたかもしれないが、ロシアは、ご近所さんには恵まれていないなぁと直感的に思ってしまう。まずは南東側にモンゴル。ロシアは超大国で、ナポレオンとヒトラーに勝った国として有名で、戦争に負けて領土を侵されたことなんて無いと思われるかもしれないが、モンゴルにはひどくやられた歴史がある。そして、南にはイスラム教国、西側は言わずもがな、NATO諸国が睨みをきかせている。そして、北は氷の覆う海である。その周辺で言うと、盟友というのが同じ社会主義のルーツを持つ中国だが、実はあまり信用出来ない。日本の報道では、対米路線のロシアと中国は盟友のように報道されるが、ロシアは中国のしたたかさを十分に理解しており、欧米の経済制裁下のロシアの足元を見た不平等貿易を今は甘んじて受けているものの、今後どうなるかは不透明である。両国は深刻な領土問題と貿易の問題も抱えている。欧米という共通の敵を持つという関係性のみが両国を近づけているだけで、本当の意味での信頼関係があるかどうか。

よって、ロシアは超大国でどっしりと構えているように見えて、肩身狭く生きている国なのである。そもそも、今はロシアと一色で塗られている地図上の領土の中にも、特にウラル山脈から東側、つまりシベリアにおいては、ロシアからの独立を狙う地域すらあるくらい、安定しないのがロシアなのだ。

その特徴としては、すこぶる外交が下手な国、だと私は思っている。ニュースではロシアはフィクサーというか、裏で色々世界を操っているようにも思える報道があったりもするが、それはロシアが厚いベールに包まれて、何となく内側が見えないための恐怖心からくる憶測に過ぎず、どちらかと言うと、私の見解としては表舞台での活動がメインであるようにも見える。

何故なら、ロシアの外交というのは、ジャイアン(武力)とスネ夫(資源)でしか基本的には行ってないことがわかる。資源がない日本からすると、オイルの値段上げるとか、パイプライン止めるとか、そんな外交出来たら楽だなとか、思うかもしれないが、何かあるとパイプラインを止めるよと言ってくる国と仲良くしたいかという、やっぱりそんな国は信用出来ないなと思ってしまう。あとは、今回のウクライナのように、何かあると攻め込むよ、というのも外交カードだし、あとは核爆弾使うよ、とか、いわゆるジャイアン的な外交である。ロシアのスパイ活動など、色んな報道はあるが、それはほとんど実を結んでいないというか、結局、武力と資源でしか外交が出来ていない国なのだと思う。

そして、余談になるが、日本は今のところ、外交がかなり上手くいってる国であり、多くの観光客も日本に来てくれているし、日本のパスポートは世界最強とも言われてることからも、世界中まんべんなく上手く付き合っていることがわかる。こういう国は外交が上手い国ということであり、これからも続けてほしい。外交とは、いかに自国を守り、豊かにし、さらに言えば他の国の平和にも貢献出来るかということだと思うが、そのためには、国際的なパワーバランスの中で、深刻な敵を作らず、上手くやることが肝要なので、今の日本の外交はアメリカからの過度な圧力を除けば、決して悪い状態ではないと思っているし、少なくても、ロシアよりははるかにいい状態である。

さて、話を戻すと、ロシアの外交は常に、文句言うなら殴るよ、とか、良いものあげないよ、とか、そんな言い方は悪いが野蛮な方法でしか外交が出来てないので、裏で画策なんて、ほとんど出来てないんじゃないかと思う。しかし、そんな方法でしか外交が出来てなくても、今まではソビエト連邦という固い絆があったし、これはもちろん武力や資源という外交カードもあったが、そもそもイデオロギーもあったため、ロシアにしては最初で最後?かもしれない気持ちの入った統一だったのかもしれない。しかし、やはりそれもだんだん権威的になってきたというのもあるが、冷戦での敗北により、イデオロギーが崩壊、ソビエト連邦は解散に追い込まれると、次々に色んな国がロシアから離れていった。

そして、今プーチン大統領がやろうとしているのが、かつての同胞へのアプローチである。ロシアに比べればはるかに小さい国ばかりだが、地政学上、彼らが親露派かどうかは極めて重要になってくる。何故なら、ロシアはご近所さんに恵まれていないのだ。

そう考えてみると、日本という国はロシアにとってみると、友達になりたくて仕方ない国なのではないか?と思う。そもそも日本は世界の人気者であり、科学技術や芸術分野、さらにスポーツにおいても、ロシアとの親和性がある。ただ、アメリカがネックである。日本には米軍基地があり、近寄り難い。また資源もヨーロッパ程、日本はロシアに依存してないので、ロシアの得意な外交は日本にはなかなか使えない。ロシアは、というかプーチン大統領は、ものすごく不器用である。

プーチン大統領と日本を繋げたものは柔道だった。プーチン大統領は柔道とその精神をよく理解し、そこから日本を見ていた。実は大の日本ファンだったはずである。それが今や、ウクライナ侵攻で米国に引きずられる形で日本が離れていってしまい、とても残念に思っていることだろう。

しかし、やはり仲間は必要なので、反米国のなかからパートナーを選ぼうとすると、本来、中東諸国を狙っていきたいところだが、最近、米国にもいい顔をするようになったサウジアラビアを始めとするスンニ派国は難しい。よって、イランへとアプローチをする。イランはロシアというかつての偉大な国というイメージからロシアへの尊敬や敬意があり、友情は芽生えやすいが、イラン自体がとにかく評判が悪い。経済効果もどこまであるか、それも疑問だったりもする。

そして、手を伸ばしていくのは、アフリカ大陸。ここは、欧米に対する潜在的な敵対心もあり、かつ内戦が絶えないこともあり、軍事支援をとても必要としていることから、ロシアの介入を快く受け入れてくれたりもする。よって、ウクライナ侵攻でも、ロシアを批判する国よりも、支持する国が多かったのも、ここアフリカである。しかし、アフリカにはすでに中国が大きな存在感を示していることと、ロシアとして、製造業やインフラなどの基幹事業になかなか手を出せないでいることから、深い繋がりにはなかなかなれないでいる。

さらに、進んで大西洋を超えると、アメリカ大陸。北米は当然、難しいのは分かっている。よって、狙いは中南米。しかし、中南米は資源国。ロシアの得意な資源貿易はなかなか難しい。また、アフリカほど内戦などの問題も少ない。そして、そもそも地理的にアメリカのお膝元であることと、ロシアからはかなりの距離があることからも、関係の構築は難しい。例えば、日本から見ると、中南米というのは日系人が多かったり、そもそも親日国であったり、アメリカに近いことが逆に近づきやすかったりして、地理的には不利な中南米とも友好関係を築けやすいので、中南米と仲良くなれない、というのは違和感があるかもしれないが、それがロシアから見た視点なのである。

東南アジアではロシアはほとんど嫌われていないように思う。特にたくさんのロシア人観光客を迎え入れてるタイや同じ社会主義国家のベトナムは親露ではあると思うが、やっぱり隣国の友人としては、少し遠いということと、対等に付き合うという間柄にはならなそうだとも思っている。

インドは中国と同様、したたかさがあり、モディさんが首相を続けている間は対立はないが、インドに上手く使われるという関係性にはなりそうで、友人というわけではない。

 

私がもし総理大臣または総理大臣に何か進言出来るような立場であるなら、ロシアとの外交、特にプーチン氏との外交をするなら、上手く出来る方法があると思っている。それは、武力的でもなく、資源や金銭に何か頼るのではなく、単にロシアと日本は友達であるということを高らかに宣言するだけなのである。まず、ロシアからすれば、日本との軍事同盟なんかは望んでもないし、日本に資源を売りたいというのはもちろんあっても、資源の売り先は他にもたくさんあるわけで、あえて日本に買ってもらわなくてもいいのだ。だから、それは外交カードにはならず、友達になろうだけでいいのだ。

こう書くと、左翼思想だとか、戦争肯定派だとか、スパイやら陰謀論だとか、そういうレッテルを貼られかねないのだが、全くそういうつもりはなく、ロシアが最も求めているのもの友人であるということを理解し、ロシアのことを裏切らない友人でい続けることを約束することが何よりも重要だと思うのだ。

例えば友達になったら、北方領土はどうする?とか、ロシアが攻めてきたらどうする?と聞かれるかもしれないが、同盟国といいながら軍事基地を大量に日本国内に置き、多額の思いやり予算を払い、武器を買わされているアメリカに対しては無頓着であるわけだから、ロシアとの問題だって、実はそこまで気にすることはなく、北方領土問題はそこに住んでいた人々の辛い気持ちは痛いほどわかるとは言え、友達と宣言していない今もなお返還されないわけだから、そこの状況は変わらないとしても、問題はないし、友達になった方が返還される可能性は上がると思っている。

また、何故日本がロシアと友達になれるか、それはお互いに高い文化レベルを持っていることなのだ。アメリカ主導の世界だと、国の価値は軍事力、経済力、資源、穀物という物理的な、物欲的な、そんなものばかりで国の価値を測っている。ロシア人にしても、日本人にしても、大事にしているものは、歴史、文化、芸術、心の豊かさなどの目に見えないものだったりする。ロシア人にそれを感じない人も多いとは思うが、それは隣人に恵まれないために、色々と苦労した結果そうなっているだけで、ロシアの中には素晴らしい文化や芸術がたくさん残っており、そこにもっと日本が光を当てて、友人としてお互いに披露しあったり、称え合ったりすることが出来たら素晴らしい。

どうも国同士が友好関係を築くというと、アメリカの理論で、貿易を活発化しようとか、軍事同盟を結ぼうとか、そんなことばかりで、私からすると、だから対立が起きるんだろと思ってしまう。それはまだアメリカが建国から数百年しか経っておらず、人と人、国と国がどうやったら上手く付き合えるのかが分かっていないのだと思っている。ただ、ロシアはそうではない。ちゃんとした歴史と文化のある国なので、友人になれるのである。

 

だいぶ長くなってしまったが、まとめると、ロシアは隣国に友人がいないため、友人が欲しいが、外交が下手で敵ばかり作ってしまう。友好的な国ももちろんあるが、距離の問題、文化の問題など、なかなか友人になってくれそうな国は少ない。

しかし、日本は距離的にも、文化的にも、ロシアと仲良くなれる要素がたくさんある。だから、日本はロシアと仲良くなれるはずで、アメリカからの圧力はあるかもしれないが、日本とロシアの関係は軍事や経済ではないので、アメリカもそこまで言ってこない気がするのと、そもそも理解出来ないかもしれないし、問題はないと思う。

ロシアから見た世界、それはロシアの厳しい外交政策の中で、きっと日本を特別視しているのでないか?今は、アメリカに抱えられてしまってはいるが、なんとかならないか、模索してるのではないか?と思っている。

 

 

子どもの◯◯禁止について

子育てをしていると、親同士が集まって、色んな話をする。

自分の子どもとの日常とか、習い事やら、勉強のことなど、色々な話題があるなかで、たまに、子どもに禁止していること、というテーマになることがある。

今まで聞いた中だと、お菓子禁止、ユーチューブ禁止、ゲーム禁止、テレビ禁止、友達と遊ぶの禁止、なんかが多かった気もするが、家庭ごとに色々考えてやっていることなので、それに対して、賛成も反対もなく、それぞれが決めればいいと思う。

ただ、私が思うこと、それは子どもも大人も同じではあるが、特に子どもは、過ぎたるは及ばざるが如しということにも似ているが、飽和している状態にしてはいけないと思っている。

それはどういうことかと言えば、子どもが何かを始めたり、しばらく続けるとものすごく成長する。あっという間に習得していき、いつの間にか、形になってくる。しかし、それをしばらく続けると、今度は極端に成長速度が落ちる。これを飽和状態(サチっている)と呼ぶ。

例えば、ゲームにおいても、最初は見様見真似というか、操作も覚束ないところから、だんだんと上手くなるが、そのうちもう上手くなり過ぎるものの、もちろんプロゲーマーというところには到達するはずもなく、だんだん慢性的になり、それ以上の成長はかける時間の割に小さくなる。

つまり、覚えたての頃の成長ほどの成長は、ある程度のところへ行くと期待できなくなる、ということが一般的に言える。

また、子どもの頃の時間というのは、とても貴重であり、それこそ幼稚園→小学校という親がどっぷり関われる時間は本当に限られており、そこで何をさせるか、させてあげられるかは、子どもの成長にとって、とても重要になってくる。

また、子どもの能力や興味は、実際にやらせてみないと分からないということと、それを見極めるためには、一度体験させるだけではなく、最初の成長曲線に乗せるところくらいまではやらせないといけないので、それなりの時間がまずは必要になる。

次に、サチったら一度止めさせることも重要になると思っている。何となく中途半端に止めることに抵抗がある人も多いと思うが、小さいうちは中途半端で問題なくて、むしろ、一つに絞り過ぎて、他の選択肢がなくなる方がむしろ害だと思っており、その理由は先ほども書いたように、あるところで成長曲線は鈍くなり、そこを突破していくのは、例えば中学生だったり、高校生になってからでも全然遅くはないし、ものによっては大人になってから再始動しても遅くないものもあるわけなので、小さいうちは新しい体験の数を増やし、色んなものの成長曲線を伸ばしてあげる方が重要である。

さらに、色んな成長曲線は時に相互にシナジー効果を生むことがある。例えば、スポーツと音楽だと、サッカーやバスケットのような瞬発力と状況に合わせて体を動かすことには、リズム感が重要になり、音楽の素養がある方が伸びると言われていたり、ユーチューブを見てたら、色んな世界に興味を持てる様になって勉強が出来るようになるとか、何と何が結びつくかは想像できないが、とにかく色んな成長曲線があること自体が重要なのだと思う。

よって何でも禁止にしてしまうのはもったいないと思う反面、多くの親が禁止しているものはやはり、やり過ぎてしまったりすれば、健康やら、その他色んな弊害があるものが多いので、禁止のままでもそこまで大きな被害はないかもしれないが、私としては、禁止よりも奨励というか、親がやらせたくてやっている、つまり子どもに強要しているものの方が危険だと思っている。

一番聞かれるのは、勉強しなさい!である。小学受験、中学受験は、勉強の成長曲線に乗せようとする程度であれば全く問題ないが、遊ぶ時間もなく塾、寝る時間もなく勉強、という生活をさせるなら、全くナンセンスだと思っている。同じように、土日(親が唯一子どもと遊べる時間)をずっと同じことで埋めてしまうということも、同じである。すごく特別なケースは除いて、普通の能力の場合、とにかく色々親子で体験したり、遊んだり、別の活動してみたり、その方がやっぱり子どもの成長と興味の幅を広げるには役に立つと考えられる。

全ての動物において、親の役目は子どもが自立するまで育てるということであり、例えば鳥も飛べるまで巣立ちをしなかったり、熊でも狩りが出来るようになるまでは母と行動を共にしたり、それを人間に当てはめるなら、自分でお金を稼げるようになるようにするのがやはり親の役目になるわけで、もしある一つの能力でそのまま生活していけるようになるのであればそれはそれでいいが、保険という意味でもいくつか武器を持たせること、または色んな選択肢の中から自分で選んで進めるようにするには、やはり色々と経験させてみることはとても重要である。

また、色々経験させることのもう一つのメリットとしては、成功体験の多さである。自己肯定感というのはよく耳にするが、何となく自信がある、という状態は精神的な強さにも繋がる。成功体験が多ければ、それだけ自己肯定感が高まり、自信が持てるようになる。何か困難があっても、乗り越えられるのでは?という挑戦心が生まれる。これがとても重要だと考えている。

色々経験すると、いくつかは失敗してしまうこともあるが、基本的には、先ほども書いたように上手くなること、成功することが圧倒的に多い。例えば、釣りをやらせてみても、最初釣れなくても、しばらくすれば釣れるようになったり、キャンプにいけばいつの間にか火を操れるようになったり、どんどん出来ることが増えてくる。その一つ一つが成功の喜びになり、自信に繋がる。

よって、このような貴重な体験を出来るチャンスが親の休みに合わせて土日や祝日にあったり、または平日の夜でもちょっとした時間で手品を教えてみたり、工作してみたり、いくらでもあるのに、全部、勉強しなさいとか、また何か親がやらせたいものに固執して、そればかりをやらせてしまうと選択肢が狭まってしまう。

禁止にしてるものも、本当は少しくらいやらせてもいいのだと思う。ただ、中毒性が高く、そればかりやるようになると、他のものが入らなくなるので、もったいないということで、どうしても禁止したくなる気持ちはよくわかる。しかし、実はそれも経験なので、あまり禁止を増やしてしまうよりは、やってもいいけど、これをやってみな、と新たなカードを渡すのがいいのではないか?と思っている。

禁止と奨励。

子どもは親の分身でもなければ、人形でもない。意思を持った独立した人間であることを考えれば、全てをコントロールしようとするのではなく、如何にして勝手に動き、最終的には、自分の意思(選択)と努力(能力)で生きて生けるように導くか、それが親の役割になってくる。

例えば、ゲームを禁止にせずにやらせてみて、ずっとそれをやり続ける期間があっても少し見守ってみて、何となく落ち着いてきたところで、映画を観せてみたり、スポーツやらせてみたりしながら、幅を広げてあげると、例えまたゲームに戻って、ゲーム関連の仕事に就いたとしても、そこで何かしらの融合があるかもしれないという期待が持てる。ゲームだけの世界にいてはやはり発想の幅が狭い開発者になってしまう。

勉強だけをやらせれば、もしかしたら難関大学に合格出来るかもしれないが、その先に何があるのか、それが問題である。勉強は大学に入るツールではあるが、学問の先には社会があり、ツールを使ってどうやって生きていくのか、つまり社会貢献をするのか、それが働くということに繋がる。スポーツでも同じで、ずっと同じスポーツだけを小さい頃からやり続けることで、確かに誰よりも優れた選手になる確率は上がるのかもしれない。しかし、万が一怪我をしたらどうなるか、万が一もっと優れた選手が現れたらどうなるか、そもそも何かのキッカケで違う世界に興味を持ったらどうなるか、結局人生は思い通りにはいかないわけで、転んでも這い上がるためには、選択肢が他にあること、また自信を持って別の挑戦が出来ること、または遊んでいた友達に助けてもらうことだって、あるだろうし、そんなことが重要になってくる。

人生に無駄なことは無い、それはその通りで、何でも禁止してしまうのはもったいないというのと同時に、子どもが止めてもやりたいと言い続けてしまうものではない限り、親があまり何かに熱中させ過ぎるのも良くない。

石丸伸二氏について

安芸高田市長の頃から、彼の振る舞いというか言動には注目していて、とても好感が持てると思っていた。何より嘘がないこと、よく調べていること、分かりやすいこと、既存のものとの対立を恐れないところなど、本当に新しい、期待が出来る政治家という感じがしていた。もちろん、この先何があるか分からないし、色んなトラップやそれこそ色んな力が彼を押さえつける、または利用することも考えられるので、手放しで称賛するのは控えるにしても、都知事選で2位になったことは、とても素晴らしいし、むしろなんで1位になれなかったのか?とも思うくらいであった。

すると、今まで小池vs蓮舫と伝えてきた大手メディアがこの新風を全く読み切れてなかったということになるのを避けてか、急に石丸伸二特集を始めた。

実は今回書きたいのはここからで、この手のひらを返したメディアの報道内容もまた有権者を馬鹿にしているというか、まだ本質が掴めてないなぁと思っている。

まず、今回の石丸伸二氏の躍進の理由をSNSの活用が上手かったからだとしている。しかし、これはあくまで手段であり、本質ではない。そんなことを言えば、YouTube に広告を出す政党もあったし、SNSを通じて発信しているのは、彼だけではない。しかし、彼の動画のみが特に拡散されているのは事実で、それはみんなが一生懸命拡散していたからで、何故みんながそんなに頑張って拡散したのか、それが本質なのである。

今やSNSを使うことは普通のことであり、特別ではない。しかし、特別なことは何かと言えば、それが、バズる(人気動画としてたくさんの視聴者を獲得する)かどうかであり、みんなが観たいと思わない限り、または誰かに見せたいと思わない限り、広がらないのである。メディアは、SNSのお陰で知名度が上がり、それで石丸伸二氏が躍進したのだと言うが、そうではない。石丸伸二氏が素晴らしい政策を持ち、それをわかりやすく伝えており、また既存の勢力と戦う姿勢だったり、それを実現する知力や話術、そしていつもの世襲議員ではなく自力で這い上がってきたという経緯、そういうものが好感に繋がり、SNSでバズったわけである。つまり、私の意見としては、小池vs蓮舫としてずっと二人を追っていたメディアが石丸伸二氏を同じくらい特集していれば、SNS戦略なんてなくても彼は躍進していただろうし、むしろ当選したかもしれないのだ。何故なら、有効な有権者(つまり、投票権をもち、その権利を行使する人)の多くは未だに情報をテレビと新聞で集めており、そこの層に響く必要があるからである。

また、石丸伸二氏に大きな追い風となったことがもう一つあるとすれば、他の候補者の多くが小池さんのこれまでの仕事で公約がほとんど守られていないこと、学歴詐称問題、金の問題、など、政治家の資質を問うような事実がいくつも暴露していたり、蓮舫さんに関しても、同じようなことが言われていたため、多くの人が彼らに票を入れるのをためらっていた。そこの浮遊票、つまりは何も考えずに小池さんや蓮舫さんに入れるという票以外の票集めの中で、一部もとても過激な主張をしている候補(考えはしっかりしていて、自分なら投票してしまう)やとにかく小池さんを再選させないと必死な候補など、石丸伸二氏が主張したかったことを他の候補者が言ってくれていて、その中で一番好感度が高かったのが、石丸氏だったのかもしれない。

これまで、日本は世界から、企業は一流、政治は三流と言われて、日本の政治家は影響力のない存在であり、首相に会う前に、トヨタの社長に会いたいと言われる感じだったが、その政治の腐敗にも関係してか、最近は企業も二流になってきて、それこそ日本沈没とも言える危機的な状況になりつつある。

日本は前にも書いたと思うが、政治家にとって、これだけ楽な国は他にはないと考えている。国民は危険なデモや暴動することもほとんどないし、勤勉で税金もしっかり払うし、宗教対立、民族対立(一部問題はあるにせよ、武力などによる対立)などはないし、本当に政治家がちゃんとやらないといけないことが他国に比べて明らかに少ないのにも関わらず、いや、だからこそ、三流になってしまうのかもしれないが、石丸伸二氏の登場には、一条の光にも思えた。

ただ、それからしばらくして、メディアにも多く出るようになってからは、視聴率のためか、実際の政策の話よりも、彼の話術にフォーカスして、ひろゆき氏に続く、新たな論破戦士誕生のような扱いばかりであまり面白くない。我々は、議論のための議論には興味がない。プロレスを観たければプロレスを観ればいいのだが、期待しているのは、あくまで政治改革であり、閉鎖された政治の世界に

彼が開ける新しい風穴なのである。

政治家にとって話術は必要不可欠であることは間違いないが、それは手段であり、目的ではない。それを使ってどうやって人々を動かし、地方を、または日本を守り、発展させてくれるのか、それが大事なのである。

私は、参政党にも石丸氏に似たような感覚を持っていた。しかし、次第に内部分裂などもあり、参政党は一時期の勢い失いかけていて、残念に思う。

私が今の日本の政治家に求めるもの、特に総理大臣には、突破力が必要であると思っている。一人でドリブルをして、ゴールを決められる人。それは、国民を熱狂させるカリスマであり、国会議員だけでなく、官僚たちも束ねる知性と人望があり、日本を守り、それは国民の生活を守り、国土を守り、文化や歴史を尊重し、輝かしい日本の未来を描く理想家であり、そして心も身体もタフであること。石丸氏に不安があるとすれば、国会議員や官僚を束ねる人望があるかないか、という部分のみで、その他の素質は十分にあるとみていた。それは、参政党の神谷氏も同じだ。

彼らのような若くて、優秀で、タフであり、日本を愛している様な政治家がもっとたくさん出てきたら、日本は変われると信じている。

クルド人問題について

私はどこかの記事でも書いたかもしれないが、人生の半分を外人として生活してきた。それは、日本国籍を失ったわけではなく、単に海外で暮らしたため、その期間は外人だったということである。

外人として暮らす際、私が心がけているのは、現地の文化や習慣を尊重することであり、決して単に法律を守るということだけではなく、その土地の雰囲気というか、流れに合わせるということである。しかし、それと同時に、あまり書きたくないことではあるが、その文化や習慣などに対して、または少し大きな話ではあるが、その国の将来などには無責任でいられるし、気に入れば長くいればいいし、気に入らなければ自分の国に戻るか、または別の国に行けばいいというお気楽な生活が出来る。よって、私は外人でいることはとても快適だし、外人生活は個人的には気に入っている。

しかし、その国や地域から出ていけと言われてしまえば、出ていくしかない危うさもあるが、それはお気楽でいられることの代償であり、仕方のないことのように考えている。

さて、クルド人問題だが、これは長いこと問題になっていて、クルド人だけではなく、日本にいる外人がその地域の人々との間に摩擦が起こるというのは非常に自然なことというか、当然そうなるというのが私の見解であり、仕方のないことだと考えている。

特に、一定の人数を超えて、彼らがあたかも自国のように生活してしまえば、当然亀裂が生じるのは火を見るより明らかである。

私自身、子どもの関係もあり、学校や地域の行事には積極的参加をし、地域のコミュニティというのを大事にしている。政治や社会というのは、遠い存在のように見えて、実は人と人の繋がりの中にあるもので、その人と人の繋がりは、文化や風習とともにある。つまり、社会を維持すること、安定的に継続的にそして、快適で安全な地域というのは、草の根の活動の上に成り立っている。

よく外国人観光客が日本に来て驚くのは、フランスのパリのようなゴミが散乱し、治安が悪いというのとは違い、清潔で安全という部分である。しかし、こういうものは一朝一夕で得られるものではなく、教育であり、風土であり、長年の蓄積に他ならない。

冒頭で書いたように、私が外人である時には、気楽な心持ちとは裏腹に、それを壊さないように常に心がけていた。何故ならそれはその土地の人がずっと大事にしてきたものであるからだ。

その様な観点で、色んな国を見てきたが、ほとんどの国は、そういうものよりも、合理的なものを好んだり、または自己中心的なものであったり、自然体であることであったり、日本ほどそういうものを大事にしている国というのはなかなか見つからない。その主な理由として、アメリカやカナダの様な移民の国であったり、インドや欧州などのように様々な宗教や言語、文化が混ざっていたり、中国のように強力な政治主導があったり、同じ文化をずっと続けてきた国というのは珍しいからだと考えられる。

よって何が言いたいのかと言えば、日本という国において、日本を維持していくためには、日本は移民を受け入れて頭数を増やすというのではなく、むしろ国を閉じて、もう一度、国として国内回帰することのように思う。

もちろん、日本に住む外国人が悪いわけでも何でもない。彼らがいることで、我々は多くの事を学べるし、新しい血はとても重要である。しかし、クルド人問題にみるように、移民が束になって、新しい文化圏を築くことは日本にとって好ましい事態ではない。お互いに融和すること、迎合すること、共生することは何よりも重要なことであるが、違う文化圏を国内に作られることは避けたいと思うのだ。

よって、移民、移民と人口だとか、経済だとか、そういうことのために移民を受け入れることは日本の安定と発展のために望ましくないのではないかと考える。

クルド人問題はよく見てみると、夜中に水タバコを吸って、遅くまで騒いでいるとか、大きな祭りのようなものを開催しているとか、暴動のような騒ぎを起こすとか、そんなことが問題になっているが、彼らの文化、つまり、自国においてはそういうことがむしろ日常であり、日本にとってみるととても迷惑に思えることでも、それが彼らの普通である以上、つまりはちゃんと融和し、迎合し、共生しない限り、一向に解決しない。

そのために、ちゃんと地域で受け入れて、交流しないと、と言っても、例えば日本が好きで、日本人と共に生きていきたいと思っている外国人でないと、なかなか難しい。クルド人の多くは、日本が好きなわけではなく、自国で暮らせなくなり、どこでもいいから行けるところを探し、たまたま知人の伝手があったりして、日本にやってくるケースがほとんどで、最初から溶け込もうとか、そんなことを考えているわけではない。

私が外人として、その地域に受け入れられるためには、受け入れ側の姿勢は2割、つまり全く受け入れる気がないとこっちが何をしても受け入れてもらえないが、向こうに多少受け入れる気さえあれば、残りの8割は受け入れてもらう側の努力が必要だと思ってきた。クルド人が実際どこまで本気で溶け込もうとしているのかは分からないが、この8割の努力はしていないようにも見える。その理由は簡単で、彼らは決して日本人に助けられているという認識はなく、同胞の仲間に助けられていると思っているし、そのコミュニティさえあれば生きていけてしまうので、溶け込もうという努力なんてほとんど考えないのだと思う。

話は長くなったが、このように数合わせのために移民を受け入れては、地域との衝突は避けられないし、日本の長年培ってきた文化や風土は壊されてしまう。もちろん、日本の文化や風土の中には変えていかないといけないものも多いので、壊されること自体決して悪いことだけでもないが、残さないといけないのもまで破壊されてしまうと、ここはもう日本ではなくなる。

国防とは、何も武力を使って侵略を防ぐことだけでなく、このように内部から壊されることを避けるのもまた国防である。防衛費はどんどん増額される一方だが、それに反対する気はないにしても、もしそんなお金があるなら、少子化で疲弊している産業の発展、特に農業従事者の高齢化で放棄される農地を国が買い取って大規模農業に切り替えていくとか、やり方は色々あるにせよ、移民に頼ろうとする姿勢の改善に使うことだって、立派な国防であると思う。

今回、あたかもクルド人が悪者のように書いてしまったが、彼らは悪くない。彼らがその様になってしまう環境がそこにあっただけだと考えている。移民政策を考える上で、彼らがどのように外国人として日本で生活していくのか、地域と共生していくのか、そういうことを想像しながら、移民政策は進めて欲しいと切に願う。日本を守るために。

青木宣親引退について

スワローズファンを続けてきて、数々の引退試合を観てきて、それこそ、古田だったり、土橋だったり、応援してきた選手の引退試合の中でも、青木宣親の引退は一番大きな衝撃のあった引退であった。

まず、青木宣親は、私の1つ上の学年の早大卒であり、自分が大学生の頃は六大学のライバルでもあったが、彼がスワローズに入り、頭角を現してきた頃、私もちょうど入社し、彼より数年遅れて社会人デビューをした。入社直後は辛い時期だったこともあり、彼の活躍に何度も勇気付けられた。

そして、彼がメジャーリーグへ挑戦した年に、私も米国への赴任が決まり、何となく共にアメリカで頑張ろうなんてさらなる親近感を持って応援する様になった。彼がブリューワーズから色んな球団を渡り歩く中で、私の赴任先であったテキサス州ヒューストンにあるアストロズでもプレーしてくれた。もちろん、彼の試合にも足を運んだし、日本人会の企画で、彼のバッティンググローブがチャリティーオークションにかけられた時には、当時まだ若手の自分にしては奮発して競り落としたことも記憶に新しい。

そして、私が5年の任期を終え帰国すると、彼も帰国し、またスワローズに戻ってきてくれた。青木宣親はプロ野球選手としてはもうベテランの域に達しており、若手の手本になるような選手になっていたが、自分もまたその後の会社人生を左右するような大きな案件を任されるようになった。

このため、ずっと彼とは人生がシンクロしてるとずっと勝手に思って応援していたので、自分の中では、一人のスーパースターというよりはむしろ、自分の生き写しのような、尊大とは思いながらも、自分の分身のような、そんな不思議な感覚で彼の活躍を見ていた。

そんな彼が引退してしまった。

なんだか心に大きな穴が空いたような感覚だったし、また自分自身を見つめ直すキッカケにもなった。私はサラリーマンなので、この年で引退するわけにはいかない。でも、これまでシンクロしていた人生からして、きっと自分にも何かの転機があるはず、そんな気がしてならなかった。

よって、彼が今後どういう活躍をするのか、そして自分が会社やその他の場所でどんな働きをするのか、まだ何も見えないが楽しみにしている。

彼の引退式はGLAYのTAKUROの国歌演奏から始まった。私も高校時代のバンドブームに乗っかった身として、GLAYというのは憧れのバンドであり、たくさんの曲をコピーして練習したものだったから、グッとくるものがあった。セレモニーでは、早大同期の鳥谷やマクガフのメッセージが印象に残ったし、マリナーズのユニホームを着たイチローが出てきた時にも驚いた。さらに、ダルビッシュが毎年恒例で、青木家とダルビッシュ家での食事会をやっていると言った時にも驚いた。家族や友人を大切にしてきたんだなと感銘を受けた。

そもそも、この引退式。2015年にスワローズがセ界一を決めた10/2に私の長男が生まれたのだが、その記念すべき10/2に行われたのも、また運命を感じた。

全盛期の青木宣親は、打席に立てば、打つイメージしかない、本当に怪物という印象だった。こういう印象のある選手はスワローズだと青木宣親と山田哲人、そして村上宗隆、助っ人を入れると、ペタジーニとバレンタイン、そして、今のオスナサンタナ(二人セット)くらいである。その中でも、同世代ということもあり、青木宣親は自分の中では別格であった。

青木宣親の伝説はたくさんあるが、私が最も好きなのは、今の奥さまへのアプローチである。なかなか付き合うというところまでいかなかった場面で、今度の試合でヒット3本打ったらデートに行こうと約束をし、本当に3本打って、デートに誘うことが出来、そこから結婚までこぎつけたというエピソードである。決めるところで決められる勝負強さという面と、奥さんへの想いと、色々とカッコいいなと思わせてくれるエピソードである。

あとは、単純にすごいなぁと思わせてくれたのは、いつの番組だったかハッキリとは覚えてないが、色んなスポーツからNo.1の選手が集められ、様々な体力勝負をするという企画で、青木宣親がハンドボールの宮崎や角界の朝青龍、などのメンバーの中で見事野球代表として優勝していたことである。

優勝といえば、2021年と2022年のニ連覇がなんと言っても最高の瞬間だった。青木宣親の帰国後、最大の目標が優勝であり、それを達成した時は本当に感動的であった。まさに、有言実行の男という感じであった。

 

さて、気は早いが早速、彼の次の活躍に期待してしまう。

今言われているのは、スワローズの時期監督という声だ。私もそれに大賛成なのだが、すぐにというのは少し不安がある。以前、古田監督が誕生した時も引退からすぐに監督というか、選手兼監督だったのだが、監督として成功したとは言えない成績だったので、期待されていたにしては、短命な監督になってしまった。もちろん、能力も人柄も、申し分ないのだが、やはり監督業における修行期間は必要だったのではないかなと思う。今の高津監督やオリックスの中嶋監督もそうだが、二軍監督を経てからの一軍監督で、成功を収めていることからも、やはりその様に修行というか、監督業の経験はしっかり積んだ方がいいと考えている。彼のスワローズ愛と選手としての実践、さらにはメジャーも経験したという経歴、どれを取っても次期監督を期待したくなるのは分からないでもないが、私は意外と監督にこれらのものは求めておらず、監督として監督業の能力があるかないかだけであり、青木宣親という名前がいつまでもスワローズの中にあって欲しいという思いもあるが、まずはしっかり監督業を学んでからがいいかと思っている。そして、満を持して、最高の指揮官青木宣親監督を見てみたい。

そして、その時までに自分もまた成長して、次のシンクロを期待している。

 

 

55%について

この数字を見て、ピンとくる人はいないだろうが、これは若者の未婚男女400人を対象にした調査で、子どもを望まないと答えたの割合だそうだ。

ついに過半数を超えた、とますます少子化が加速するとみなが戦々恐々としている。

そもそも、子どもを望まない理由は何かと調査結果を見てみると、それは子どもの将来に責任が持てないとか、子育てが大変そう、お金がかかる、自分の自由時間が奪われる、といった内容で、実際に子育てをしている私からすると、全部正解!その通り!と思わず頷いてしまう。

何で子育てをしてないのに、こんなことを知っているのだろうか?と思うと、やはりネットで流れる情報の多くが、子育てのリアルを伝えているからだろう。

では、私は子どもを望み、そして、現在子育て奮闘中であるこの人生を後悔しているかと言えば、それは全くそんなことはなく、むしろ産まれてきてくれてありがとうと毎日、いや毎時間感じる程、子どもたちが愛おしい。

子どもを望まない理由を並べてみたところ、どうも感覚としてはペットを飼う時の悩みに似ていて、確かにそういう一面も否定出来ないので、全部正解であるものの、当然それだけではないのが、ペットではない、本物の子育てだ。

子どもを望む、望まないという選択は自由だし、望まない人生は、それはそれで素晴らしい。だから、それを否定することは絶対にしないが、何かの決断をする時に、一方的な視点だけで判断してしまうのはもったいないので、あまりネットには書かれない子育てについて、ちょっと書いてみたい。

 

まず、産まれた時。

自分の愛する人が"トツキトウカ"大切にしてきた命をお腹の宇宙から地球へと放つ。その感動は何年経っても色褪せない。あの時の妻への感謝、子どもへの感謝、二人の両親への感謝、周りの方々への感謝、とにかく感謝感謝の涙腺崩壊状態が、この瞬間である。そして、色んな人からの祝福もあり、幸せという言葉を噛みしめることになる。

そして、赤ちゃん期。

授乳、オムツ交換、寝かしつけ、夜泣き、の繰り返しの中で、体力的にも、精神的にも、大変な時期である。その中で、ハイハイが出来たとか、髪の毛が生えてきたとか、言葉を発したとか、歯が生えてきたとか、意思の疎通までは出来なくても、なんかこう思ってるのかな?とか、これが嫌いでこれが好きなのかな?とか、すごく忙しい中でも、小さな変化に一喜一憂する。この時はもう、仕事もプライベートも、頭の中は赤ちゃんのことでいっぱいになる。

特に第一子の時には、分からないことだらけなので、不安も多かったり、親が鬱っぽくなってしまうこともあるが、あの小さな指で、自分の人差し指をギュッと握ってくるあの瞬間、そんな気持ちフッと吹き飛んだのを覚えている。

あっという間に、幼児期。

早くから保育園に入れざるを得ない家庭も多いが、3歳になると保育園や幼稚園に入る子が多くなる。この頃には、言葉も話せるようになってきたり、好き嫌いもハッキリしてきて、オムツも外れてきたり、公園で元気に遊んだり、友達ができたり、ご飯も大人と同じようなものを食べるようになったり、夜もしっかり寝られるようになったり、幼児期のような忙しさからは解放される。

だから、子どもを望まない理由の大変そうというのは、確かに正しいが、長く見積もっても最初の3年くらいの話であり、またその大変な時期というのは、最も子どもが可愛く、そしてとても色んな変化のある楽しい時期でもあるので、それで子どもを望まないと考えてしまうのはもったいない。

満を持して、小学生。

大人は子どもとともに成長するなと思うのが、子どもが小学生になった時だと思う。まず、子どもが産まれた時、小学生を見ると、とても大きなお兄さん、お姉さんに見えた。子どもが産まれる前には、小学生なんて小さい子どもにしか見えなかったのに、赤ちゃんを抱いていると、自分もその目線になってしまうのか、小学生がとても大きく見えていた。そして、あれよあれよという間に自分の子もその小学生になる。

ランドセルを背負って登校する後ろ姿にまた涙腺崩壊。よくここまで大きくなってくれたなと、産まれた時からの思い出が一気に蘇ってくる。ランドセルに詰まっているのは教科書でも、筆箱でもなく、きっとこれまでの成長の記録と、これから始まる小学校生活への不安と期待なんだな、なんて考えていたのを昨日の事のように思い出せる。

そして、この時期から、大人と一緒に遊べるようになる。一緒にスポーツしたり、ゲームしたり、テレビを観たり、とにかく子どもと遊べる土日が楽しみで仕方なくなる。

だから、自分の自由時間が奪われるなんて思うが、確かに子どもがいない時にやっていた事は出来なくなっているから、このコメントは正しいが、子どもとの時間は最高に楽しい時間なので、これを理由に子どもを望まないというのはもったいない。自分は子どもが好きではないから、子どもと遊ぶなんて無理と思う人もいるかもしれないが、初めて会う小学生と遊ぶわけではなく、自分が、生れた時からずっと一緒に歩んできた子どもと遊ぶわけなので、今、他人の子どもが好きとか嫌いとか、そんな物差しは全く使えない。

さて、私の子どもは今、小学生なので、これ以上先はまだ書けないが、中学校やその先の様子はきっとお金がかかる、とか責任が持てないとか、そんな悩みに、ぶつかる時期になるのだと思う。しかし、きっと今までのように、そんなことも乗り越えていけるのだろうと楽観的に考えている。

それはどうしてか。それは、子育てというのは、何も最近始まったことではない。むしろ、太古から人間がやってきている、そして現在も日本だけでなく、世界中で行われている人間生活の一部であることから、そもそもそんなに構える必要のないことという気がしている。

子どもが成長する過程を見ていると、自分の時はどうだったのかな?と考える機会も増えた。そして、ふと、なんかもう一回人生をやり直している感覚にもなった。だから、親によっては自分の叶えられなかった夢を子どもに託したり、または同じ道を歩ませようとしたり、子どものやりたいと言うことを否定してしまったり、そんな事をしてしまうのかなとも思った。私は、子どもの人生は子どもものであり、自分で切り拓いてもらいたいので、あくまでサポートをするだけ、という理想はあるが、果たしてこれから自分がどういう親になっていくのか、自分でも想像が出来ない。

長くなったが、子育てのリアルというのは、大変な面を強調することで、たくさんの子育て奮闘中の親の支持を得やすいので、それが広がりやすいのは承知している。しかし、もう少し冷静に考えてもらいたいのが、子どもを産み、育てている大多数の人は、子どもがいることを後悔していない現実を知るべきだということ。きっと、不妊治療に苦しむ人、結婚自体が出来てない人、そういう人に配慮するあまり、みんながなかなか口に出せない幸せの姿があるはずだということ。世の中というのは、平等ではない。お金がある人、健康な人、家族がいる人、秀でた能力がある人、仕事が楽しい人、夢を叶えた人、子どもがそれぞれ色んな悩みがあったり、逆に楽しみがあったりする。よって、子育ての楽しさや幸せを感じているならそれを発信していいと思っている。その代わり、それは勝ち組とか負け組とか、そんなことではない。何故なら、人は誰でも、時に勝ち組で、時に負け組なわけで、子どもが産まれ、子育てを楽しんでいる自分を半ば偽って、不幸ぶる必要はないはずなのである。

私は少子化なら少子化でいいと思っているが、最初に書いたように、子育てのリアルという一面だけで人生の大事な決断をして欲しくないだけである。子育てが出来る年齢というのは、限られているので、よく考えてもらいたい。