MLB MVPについて

大谷翔平選手一択だろうと思うが、どういうわけか対抗馬がいて、さらに彼のほうがMVPに近いというのが、驚きを隠せない。本当に近いのかは別にして、そういう報道が多いということである。

Most Valuable Player がMVPであり、日本語に訳せば、最も価値のある選手、がそれに選ばれる。

大谷翔平のすごいところは、言うまでもなく、規定投球回規定打席の二つをクリアしたことである。世界中の名選手が集まるメジャーリーグで、一軍に一年間いるだけでものすごいことである。日本で大活躍した選手でも、メジャーでは二軍にいるケースは珍しくない。そのくらい厳しい世界で、投手と打者、どちらも一流の成績を残したという前代未聞(ベーブ・ルースだの、100年前だの、はあるにせよ)の記録である。逆に言えば、一流の成績を残さないと、規定投球回まで投げさせてもらえないし、規定打数になるまで打席に立たせてもらえない。日本で高い成績を納めて、メジャーリーグに挑戦した選手であっても、規定投球回や規定打数にはなかなか到達しない。

つまり、二刀流と言って、強打者でありながら、たまにピッチャーをやるとか、エースピッチャーなのに代打で出てくるとか、そういうケースはあったにしても、どちらも規定以上をこなすというのは、それこそ真の二刀流であり、それは技術的には間違いなく超人的であること、しかしそれ以上に、移動などが過酷なメジャーリーグにおいては、体調管理やメンタル面なども他の選手以上に大変だったことも考慮すると、大谷翔平を除いて誰がMVPに相応しいのかと思ってしまう。

しかし、大谷翔平にとって不利な条件が二つある。一つは、対抗馬がヤンキースという名門球団かつ、今年は成績が良いことと、対する大谷翔平のエンジェルスが大きく低迷していることである。確かに、そんなエンジェルスからMVPが出るのは変だと思うのは理解出来る。しかし、MVP、つまり最も価値のある選手という観点から言うと、そんな弱いチームで勝ち星を15も積み上げたことは、打撃陣のバックアップがない中で、ということを考えるとむしろ弱小チームでの勝ち星の方が価値があると言えるはず。そもそも勝ち星というのが何点取られても、攻撃陣が逆転してくれればいいものなので、打撃陣が充実しているチームの投手の方が勝ち星をあげるのは有利である。また、打撃面においても、強打者がズラリと並ぶ中で打っている場合、相手のバッテリーは常に緊張状態で疲れるが、エンジェルスとの対戦の時には大谷とトラウトのみが厳しくマークされた中でのホームラン34本。これは、年によってはホームラン王にもなり得る数のホームランであり、また打率も2割7分という好成績。つまり、ヤンキースなど強豪チームで色々はバックアップがあるなかで達成するよりも遥かに大変な記録だったように思う。また、そもそもチームがあまり勝ててない中では、そのチームの数少ない勝利にどれだけ貢献したのかを考えてみれば、常勝軍団であれば、貢献度はこれだけやっても30%くらいかもしれないが、大谷翔平の場合には、70%を超える貢献度があるのではないかと思ってしまう。それこそ、最も価値のある選手なのだと思うのだが。

 

もう一つは、近年誰もやったことがないことである。簡単に言えば、ホームラン王というのは毎年多くの選手が目指しているし、歴代記録も毎年報道され、ホームランの数は単純明快で分かりやすい指標である。特にアメリカ人はホームランがなにより好きである。去年の大谷もゲレーロとのホームラン王争いがあり、高く評価はされ、それにピッチングが加わり、受賞した感じではあったが、今年の大谷の離れ業過ぎる偉業は誰もやったことのない、投手でも、打者でも超一流の証である規定を超えるということは正しく評価されないのだ。指標がないもの、奇抜なものを評価出来ないというのは、分からなくもない。学校の成績でも、数学とか歴史とか、そういうものであれば成績として評価出来るが、友達が多くて面倒見が良いとか、街で困っている人を助けているとか、すごいのは分かるけど、評価の基準がないものは、表彰されない。それが真の二刀流の難しさなのである。ただ、分かる人には分かるのが、単に成績がいいだけでなく、他にも優れた点がある方が人間的に優れているということであり、確かにホームランという成績では破れた大谷ではあるが、また投手としては最多勝で破れた大谷ではあるが、そのどちらもやったという目に見えないというか、評価出来ない部分が、本当はMVPの名に相応しいということが、絶対に伝わらないのだ。

ただ、一部報道で大谷翔平が日本人だから差別されているのではないか?との記事も見かけたが、私はそれはないと思っている。むしろ、多くの日本人が大谷翔平が日本人だから応援していて、日本人でなければ、ここまで報道もされなかったのではないかと思う。アメリカ、特に大リーグはそもそも外国人が多く、中南米からがメインだが、アジアからもたくさん挑戦しているし、まさに世界一のリーグという名に相応しい。よって、外国人だからと差別されることは、もちろん全くないとは言わないが、人数の比率から言っても、差別はされにくいと思っている。また、以前の記事でも書いたようにも思うが、私自身、アメリカに住んで、アジア人だからという理由で差別されたことはなく、日本人だから今回MVPに選ばれなかったのだ、というのは、当てはまらないと思っている。

まとめると、大谷翔平の今年の活躍は記録にも、そして特に記憶にも残る大偉業であったことは疑いもなく、普通に考えれば、MVPなのだが、チームが弱かったことで箔が付かない、二刀流の評価が出来ないことから、ヤンキースでしかも、評価しやすいホームラン王の選手が有望だとのこと。

また、MVPというのは、子どもに夢を与えられる選手に、という願いもある。ホームランを量産する選手や三振の山を築く投手も、盗塁をたくさんしたり、素晴らしい守備だったり、とにかく多くの優れた才能に与えられる称号ではあるが、今まで誰も挑戦してこなかった二刀流という離れ業に、海を渡ってきた若者が、知らない土地で、試行錯誤しながら挑戦し、自分の思い描く姿を必死で追いかけ、実現してしまったそのサクセスストーリーにMVPが与えられたら、それはきっと世界中の子ども達の新しい目標になっていくと考えている。

まだ発表されたわけでもないので、これからも動向を注視していきたい。

 

 

 

 

少年野球について

私の一番好きなスポーツと言えば、2位とかなり差が出るくらい野球が好きである。あまりにも色んな事が神がかり的で、奇跡のスポーツだと思っている。野球について、その魅力をまた別にまとめたいとは思っている。

しかし、そんな野球において、そして特に少年野球や高校野球については、とても残念な、不都合なことがいくつもある。

まず、何より道具が高いことが挙げられる。そんなこと言ったらバイオリンなどの楽器を習う人はもっとお金がかかるとか、いいものなんだから高くても仕方がないとか、言われそうではあるが、無駄なものが多いという気がするので書きたい。第一に、ユニホーム類である。値段にそこまで影響はしないものの、あの立派なベルトは必要なのか?と思う。とにかく固いので子どもには扱いにくいし、バックル部分も大きいので、ヘッドスライディングをよくする野球においては邪魔になるケースがあるのではないか、そしてサッカー同様、ゴムと紐でいいのではないか?と思う。靴下の二重化も確かにスライディングからの衝撃は守れるが、そこまで必要性は感じない。スパイクも必要なのは分かるが、高いのでボールを蹴るわけでもないし、走りやすい普通の靴でも十分に思える。さらに書くのであれば、そもそも野球というスポーツでプロ野球は別として、アマチュアであれば、ユニホームを揃える必要があるのか?という疑問もある。確かに揃ってる方がいいのは分かるが、サッカーのようにプレー中にどちらのチームか分からなくなることもないだろうし、余程奇抜なものでない限り、プレーを阻害しないので、服装自由で、試合時に背番号つきのビブス着用でも問題ないように思う。また、グローブとバットは本当に高くて、小学生用でも2つ揃えたら五万円以上かかってしまう。私は野球を金持ちのスポーツにしたくないので、お金の面でもっと敷居の低いスポーツになって欲しいと思っている。

次に、色などに指定があることである。例えば、うちの地区の少年野球だと、グローブは単色じゃないといけないとなっていて、小学生が好きそうなカラフルなやつとかは使用出来ない。高いグローブを買わされる割には好きなものは買えないというのは非常に不条理であり、理不尽に思える。同じようにスパイクも色の指定があり、ユニホームに合わせたチームごとの決まりの中で選ばないといけない。スポーツをやる上で、意外と楽しいのが、特にゴルフとかはそうだが、ウェア選びだったりする。好きな道具に身を包むことも楽しみの一つだが、必要性の低い制限がそれにかかることは競技人口を増やそうという動きにはマイナスになり得る。甲子園における坊主頭指定も最近は緩和されてきているが、そういうものを含め、下手な統一感は逆に見ていても窮屈感を覚えてしまう。

古い指導法がいつまでも残っているというのも、少年野球の特徴でもある。日本のプロ野球というのも封建的な部分が多く、メジャーリーグが変更したとなればそれなりに柔軟に対応するものの、改革とか改善に関しては一般企業などに比べるととても腰が重いが、少年野球や高校野球はさらに重い。例えば、少年野球で言えば、熱中症対策と世間で言われても、真夏の炎天下で一日中練習をさせたり(もちろん水分補給や氷の提供は親がする)、不要な声出しを強要したり、考えさせない野球、つまりは監督やコーチの言いなりの選手を作ったり、まぁ挙げていくときりがないのだが、少年野球というのは、かなり古い体質の温床であり、世間とはズレた常識の中にある。また、コーチや監督が真剣になるのはいいことだとは思うが、教え過ぎるというか、型にはめようとし過ぎてしまうというのも、問題であるように思う。大リーグなんかをみていると、色んな投げ方や打ち方の選手がいて、みんな超一流であるが、日本の少年野球は特に、みんな同じように投げて打つという感じで、個人の体格や性格、または好みに合わせるということはあまりないように思う。明らかに直した方がいい場合も多いことは認めるが、動きに個性があっていいようにも思う。

あとは、勝ちにこだわり続ける指導者や親が多いことも問題がある。もちろん、野球というのはスポーツであり、それには勝敗がつきものだし、試合に勝つために練習し、勝つ喜びを味あわせてあげたいという指導者や親の思いであることは当然理解出来るものの、小学生にとっての土曜日、日曜日は友達と約束してどこかの公園に行ったり、くだらないことでも話しをしてみたり、ゆっくり本を読んだり、映画を観たり、または他のスポーツをやったりと、色んなことを体験することもまたとても重要なことである。しかし、勝つ事にこだわると、どうしても練習をたくさんしないといけないという心理になり、土日祝日は必ず丸一日練習して、さらに平日もとかになると、子どもの可能性がどんどん狭まってしまう。プロ野球選手という狭き門を目指すとしても、やはり見聞を広めることは重要だし、プロ野球選手にならないのであれば、いくら野球が上手くてもそれだけでは何も出来ないので、小学生のうちからなるべく広く色んなものに触れる機会を与えてあげないといけないし、高学年になったら、何より自由な時間を与えて、それをどう使うか、自分で考えて行動することも学ばないといけないと思っている。よって、中学生や高校生になっても部活漬けとかも本当は良くないと思っている。プロの選手ならまだしも、または強化選手なら仕方ないかもしれないが、或いはよっぽど本人が大好きでそれ以外やる気がしないとかであれば話は別だが、半ば強制的に子どもの自由時間を奪うのは良くないと思っている。その時は、勝ちたいと子どもも親も必死になって頑張るが、終わってみると、何が残っていたのか?という虚無感を抱くことが多いのも事実。確かに親子関係は良くなることも多いが、それは一緒に過ごしたり、同じ目標を持ってやったりしたことが要因なので、野球でなくてもいいし、大切なことは親が子どものために、子どもと一緒に頑張ることである。

では、負け続けていいのか?と問われるが、まず練習時間と勝敗はそこまでリンクはしないと思っている。効率の良い練習と精神論ではない戦い方(戦術)があれば、少年野球なら勝てる。むしろ、長時間練習で疲れが溜まったり、また親もちゃんとした食事を与えられなかったり、選手が自分で考えて練習したりすることができなくなる方がよっぽど負け続ける要因になると考えている。もっと言うと、負けたっていいとさえ思う。人生という長い道のりを考えたときに、野球の試合で勝つという成功体験はとても意味のあるものだと思いつつも、野球が人より上手いことだけでは、例えばずっとゲームをやっている子どもと何が違うのか、ということになる。つまり、それが生きていく糧になるかということで、野球に全てを捧げても、そのまま人生を送れるとは限らないというわけだ。もちろん、全てを適当にやって、中途半端に多趣味である必要はないが、触れてみて、試してみて、人生の楽しみ方を試行錯誤してみることもやはり必要なのだと思うし、昔、脳科学者の話で、同じ事や慣れたことをやり続けると脳は退化すると聞いたことがある。逆に新しいことや慣れないことをやることで脳は活性化するらしいので、小さいうちは色々経験することが大事なのではないかと思っている。

とはいえ、やはり野球をやる息子を観たり、団体のなかで成長する姿は大事なことだと思うので、もう少し運営側が配慮してくれるようになるといいなと願っている。

 

国葬について

9/27安倍元総理の国葬が執り行われた。

しかし、そんな国葬において、賛成派と反対派が現れて世間は揺れた。ふともう一度、あの時(7/8)のことを思い出してみると、安倍さんは狙撃されて亡くなったんだよな、となんだか遠い昔のように思い出された。

衝撃的なシーンは何度かテレビでも報道されたが、すぐに犯人が捕まり、その動機が宗教団体の二世として苦労したから、みたいな話になってから、世間は急に、その宗教団体の話へと軸足を移して、献金問題などの話になり、大騒ぎとなった後に、今度は国葬問題。それこそ、狙撃されたことが霞むくらい宗教問題と国葬問題で大騒ぎされたのには、大きな違和感を禁じ得なかった。

あれだけの長期間、日本の総理大臣を歴任した人が殺されたわけである。やはり、もっと事件を検証しても良かったのではないか?と考えたりもする。

まず、犯人とされた人物は事件当時は無職とは言え、元自衛隊(ハッキリとはしないとのことだが)。使ったのは手製の銃。この二つのことだけでも、なんだかとても脚本感がある。よく、事実は小説より奇なり、なんて言うが、私も小説家の端くれとして思うことは、この言葉とは反対に、小説などの物語を書くときには、読み手が実際に起こりそうだという線を狙わないと、物語として面白くないので、空想の中にも現実味が必要になるということである。今回の件も、銃を使うなら、日本だと警官か自衛隊しか扱える人がいないよなとなると、キャスティングからすれば、二択しかなく、自衛隊が選ばれ、では、どうやって銃を犯人に持たせるか、と考えたときに、密輸したとかだと、その入手ルートをまた調査する必要があるし、手製ってことにしよう、みたいな小説家の発想に近い状況だったので、私は当時、脚本臭いなと思ってしまっていたのだ。何も矛盾がなく都合良く繋がるところは、事実というより、むしろ小説とか物語的だったのだ。

そして、犯人の供述はお笑いで言うところのボケという感じで、ツッコミどころ満載。本当にこの犯人とされる人物はこの動機でこれだけの大きな事件を起こしたのか?という疑問が生まれる。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220708/k10013707601000.html

ここに書かれていることではあるが、

【容疑者は「団体に恨みがあり、安倍元総理が近しい関係にあると思ってねらった。もともとはこの宗教団体の幹部を殺害しようとしたが、できなかったので元総理を銃で撃つことにした」と供述している】

まず、団体に恨みがあったのはいつからなんだろうか?彼の供述では、母親がこの宗教団体の信者で、多額の寄付をして生活がめっちゃくっちゃになったことで恨んだらしいので、要するに彼が自立する前の話であり、41歳の彼からすれば、少なくても二十年以上前からの恨みになる。

その積年の恨みにしては、

安倍元総理が近しい関係にあるから、と言っても、宗教団体に恨みがあるというところからは、遠くない?というツッコミが入る。

宗教団体の幹部は殺せなかったので安倍元総理を狙った、と言ってるが、逆にハードル高くない?というツッコミが入る。

銃で撃つことにした、と言っても、そんな簡単に手製の銃を作って、いきなり銃で元総理を、しかも演説中に殺害しようと思うのか!って、最大級のツッコミがここには入る。

ここの供述は、最初から最後まで、全然小説的ではなく、どちらかと言えばお笑いの域。突拍子も無いこと(ボケ)を言って、軌道修正(ツッコミ)が入って成立する。しかし、今回、世間はここにほとんどツッコミを入れず、そのまま受け入れて、この宗教団体について報道したり、宗教団体に関連のある人をスクープしたり、いわゆるボケ殺しに奔走してしまった。

元々、この宗教団体は有名でこれまであまり大々的に寄付の話などは公表されてはいなかった(もちろん知ってる人も多い)が、そういう情報を流せば世間の話題を席巻できることは想定されていたことだろう。案の定というか、ボケ殺しの効果もあり、安倍元総理の暗殺という忌々しい事件の報道から、宗教団体の話が世間の中心になってきた。ここで、私はまた脚本臭さを感じた。支離滅裂にも思える供述が内容を吟味されずにスルーされて、犯人は現行犯逮捕しました、動機は積年の恨み、凶器は銃、となれば警察としてはこれ以上調べる必要はないのは分かるが、世間はそれでいいのか?

そして、安倍元総理の暗殺という大事件から宗教団体の問題へと世間が移り変わり、時間が経ってから、今度は二の矢とも言うか、国葬問題が噴出。同じ時期に、エリザベス女王国葬もあり、国葬というのはこういうものだよなぁとお手本を見せられたような形にもなったが、賛成派と反対派が出るようなこの国葬騒ぎもまた茶番に思えた。真剣に、国葬について賛成だとか、反対だとか言ってる人には申し訳ないが、きっとどっちでも良くて、ただ議論をして欲しい、国葬について騒いで欲しいというのを目論んでいるだけではないか、と思えてしまう。

まず、反対派の主な主張は、経費が高いというが、日本が打っても感染するコロナワクチンに対していくら米国に払ったのだろうか?日本が武器などを放棄すると憲法で定めているのに買わされる戦闘機にいくら米国に払ったのだろうか?米国の小麦に、米国のクレジットカードに、米国の遺伝子組換え食品に、米国のファストフードに、米国の、、、ととにかく米国に流れてるお金には無頓着なんだから、国葬のように、一応全てではないにしろ国内に循環するお金ならそんなに気にしなくていいのでは?とも思う。次に安倍元総理の成果から国葬に値しないという意見だ。しかし、あれだけの長期間、総理大臣を歴任したということだけで、国民に選ばれた証拠であり、それを否定するということは公正な選挙を否定し、民主主義を否定することになるような気がする。確かに加計問題とか、さくらの会とかのスキャンダルや普通のサラリーマンには一向に成果が見えないアベノミクスだとか、不満はいっぱいあるにせよ、結局今も選挙をやれば、自公政権が勝つわけで、この事実こそ安倍元総理が国葬に値するという根拠だと思う。ただ、外国の要人に関しては来たい人が来るというのがお葬式だと思うので、それの渡航費などを日本が負担するのはやや抵抗がある。

また、台風の影響で断水している静岡の方々を助けるのが優先ではないか?という指摘は分からなくもないが、これは国葬をたまたまやっている時期だからそれが原因でなんとなく疎かになっているような印象を与えているが、国葬と復旧は本来同時に出来るはずなので、支援が手薄になっているとすれば、それは国葬とは関係なく単に政権側の怠惰が問題であると考える。

 

ただ、どちらにしても、議論が巻き起こること、これを狙っていたとすれば大成功である。エリザベス女王国葬よりお金をかけるとか、実際の襲撃現場では少なかった警備が、国葬では異例の2万人。一般献花もほぼ2万人。一対一ディフェンスでしょうか。こんなところもまた、反対派を煽る要因で、それにまんまと乗ってしまう方々も多く、誰かの手の平で操られているような。

私は今回の国葬とともに葬られる真実がどこかにあるような気がしてならない。国葬国葬でいいが、葬られるのは暗殺の真実、なんてことにならないことを願っている。暗殺から国葬までの上手く出来たストーリーが逆に何かを物語っているように思えてならないのだ。

代ゼミについて

私は大学に入る前に浪人を一年経験した。

当時は、私の同級生の半数以上が浪人していて、あの頃は浪人なんて当たり前という風潮があったように思うが、データを見返すと、当時はどうやら日本全体でも約3割しか浪人していないようだ。この3割という数字は現在の日本の高齢者の割合と同じである。高いと思うか低いと思うかはおいておいて、最近は現役でいけるところに行くという傾向が強いようで、浪人を経験する人は全体の15%程度まで下がっているという。

これがいい傾向なのか、悪い傾向なのかは一概に言えないが、私の経験からすると、浪人時代は決して無駄な一年ではなかったようにも思うし、そう思えたのもその経験の大部分であった代々木ゼミナール、通称代ゼミでの生活のお陰だったようにも思う。

最初に伝えておくと、浪人時代を経ても全体としての偏差値はほとんどというか、全く上がらず、受験の結果も浪人後も第一志望には結局受からず、現役時代とほぼ同じ偏差値の大学に合格し、そのまま入学した。浪人生活で成績が上がる人も多いのは事実だが、私は上がらなかった。その理由はずっと分からなかったが、社会人になって、限られた時間の中で電験三種の勉強をして、合格を勝ち取った経験から、浪人時代の勉強法が、受験または試験対策とはかけ離れていたことが原因だったのではないかと気が付いた。これについてはいつか詳しく書いてみたい。

さて、私が代ゼミを選んだのは、学費が一番安かったからである。他のところは年間70万円だったが、代ゼミは半額とのことで決めた。当時は父が失業していたこともあって、家計が非常に苦しいことも分かっていたので、本当に申し訳ないという思いがあった。そのためか、浪人時代は全くと言っていいほど、遊ぶということはなく、家と代ゼミの往復しかしておらず、お昼も弁当を代ゼミで食べて、夜まで代ゼミで勉強するという日々だった。飲み物といえば、塾内にあるウォーターサーバーというか、昔の水飲み場で水を飲むだけだった。

そんな中で唯一の楽しみが、名物講師達による授業だった。そもそも自分の置かれた環境のせいなのかもしれないが、とにかくその講師達の授業は面白く、彼らに陶酔してしまっていた。

また、代ゼミのいいところは、サテライン授業といって、講師が特定の校舎に来て教えてくれるだけでなく、衛星放送で生中継で代々木本校の授業を全国に届けてくれていたことだ。よって、当時、町田校だった私も代々木本校の素晴らしい講師達の授業を受けることが出来た。

数いる有名講師陣の中でも一番有名なのは、古文の吉野敬介氏であろう。元暴走族の総長(だったかな?)という肩書で、顔も強面なのだが、髪型と服装もまたそれ相応というか、派手なヤ○ザ風ファッションで、見た目と中身ともにものすごい迫力のある人だった。そして、授業はとにかくわかりやすい。古文というと、理系の学生からすると、厄介な科目である。あまり勉強に時間をかけたくないのにも関わらず、日本語とは思えないくらい、勉強しない限りは全く読めないので、とりあえず勉強してみるかと思っても、どこからどうやって、というのが分からず、途方に暮れてしまう。しかし、吉野先生の授業では、とにかくこれを覚えろ、とすごい王道をものすごい迫力で叩き込んでくれる。そして、呪文のように覚えた助動詞、るらるすさすしむずじむむずましまほし、とか、今でも覚えているほどである。そして、必ず15分くらいだったかな、雑談の時間があって、今で言うスベらない話みたいなのを披露してくれて、これがまた最高に笑えて面白かった。かなり昔になるが、杉村太蔵さんが吉野先生の話を自分の体験談のようにして披露してしまったということがあったが、私からすると、その気持ちよく分かるというか、暗い浪人時代に聞いた面白話というのは、唯一の明るい話題というか、とにかく鮮明に頭に刻まれていて、あたかも自分の経験だと、錯覚してしまうというのも、分からなくはないのだ。もちろん盗作はいけないが、そのくらい吉野先生の話が面白くインパクトがあり、影響力があったことを物語っているエピソードだと思った。私は吉野先生の授業は全てサテラインだったが、夏期講習のときに町田校に来てくれた時は、休み時間になると、吉野先生にサインをもらいたい生徒が講師室に長蛇の列を作っていた。

次に有名なのが、数学の荻野暢也氏。見た目は吉野先生とほぼ同じ系統に見えたが、中身はとても古風で、繊細というのが荻野先生の特徴。荻野先生の授業は、同じ理系学生の中では好き嫌いが分かれるところでもあり、私は好きだったが、荻野先生の解答が使える問題と使えない問題があるとか、そういうこともあったようだ。ただ、荻野先生はとにかく遅刻だとか、授業中に携帯を鳴らす、寝るなどの態度に対して、とにかく厳しくて、そういう生徒に対しては容赦なく、制裁を与えていた。浪人生というのは、精神的にかなり追い込まれているが、そこから逃げ出そうと思い、逆に弛んでしまう人が多いのも事実。特に5月〜7月とか、9月〜11月とか、中弛みしやすかったりするが、そこで誰かにガツンと喝を入れてもらうことって意外と重要だったりもする。よく覚えているのは、私が浪人している年は日韓ワールドカップがあり、運良く私はあまり興味がなかったからそこまで誘惑に負けることはなかったものの、たまたま何人かの代ゼミ生がワールドカップを観戦していたところを荻野先生に見られてしまったようで、次の日の授業でかなり長い時間をかけて、今ワールドカップに興じている場合ではないだろ、という話をしてくれていた。それも、親の事を考えろとか、ホームレスになる自分を想像しろとか、そういう切り口なのも見た目とのギャップがあって、印象に残っている。

文系でも理系でも、必ず受ける英語に関してはとにかく多くの名物講師がいて、その中でも私が最も好きだったのが、富田一彦氏。富田先生は、話し方が非常にソフトで、見た目もどこにでもいるおじさん。しかし、口を開けば毒舌の嵐。ここをこうやっちゃう人、ちょっとおつむが足りないんですかねぇ、とか、バカですねぇ、とか、突然、毒舌が出てくるので驚かすというスタイル。本人は東大卒で、頭がいいのは誰もが認めるところではあるが、彼の授業は徹底的に論理的かつ合理的で、理系脳にはとても分かりやすい内容だった。覚えているのは、とりあえず動詞を探せ、そして動詞が持つ箱に何が入っているのか、それを見つけて読んで行くという、これこそ英語の構造そのものをしっかり教えていた。そのため、富田先生の授業をしっかり理解し、使いこなせれば、確実に英語は読めるようになるし、間違いもなくなることはよく分かったが、なかなか富田流を習得出来ず、社会人になってからも、英語には悩まされたのだが、授業は色々な工夫があり、それ故、こちらも色々な発見もあり、とにかく知的興奮を味わえる授業だった。

また、英語に関してはwriting という授業が町田校にあり、日本人とアメリカ人の講師がペアになってやってくれたのだが、これが本当にいい授業だった。とにかく簡単な言葉で分かりやすく、そして文法を正しく使えというのがモットーで、仕事で使う英語はまさにこれそのものであった。やはり書くことは何よりも大事で、正しく伝えることが大事なので、シンプルに簡潔に書くことで複雑な文法を使わなくて済むから間違いもなくなる。しかし、文法はかなり厳しく指導された。最初は、a,theの使い方から始まり、時制や受動態など、日本人が間違えがちなところを中心にとりあえず、失点や減点のない文章作りを教えてくれた。しかも、町田校の先生だったのと、writing を受けている生徒が少なかったこともあり、先生との距離も近くかなり親身になって細かく教えてくれ、授業後も色々対応してくれた。

化学は、町田校にいた大宮理氏。比較的若い先生だったと記憶しているが、フェラーリを乗り回して、首都高を爆走したとか、そんな話をたくさんしてくれたが、元々は多浪していて、人生諦めかけたけど早稲田に入って、代ゼミの講師になって、お金儲けて、フェラーリ乗ってというサクセスストーリーが多くの浪人生の心を掴んでいたようにも思うが、授業は淡々と進めながら、印象的な表現がところどころに出てきて、頭に入りやすかった。

そして、最後は物理の為近和彦氏。私が物理学科を目指した理由の一つはこの為近先生のお陰でもある。この人の右に出る物理講師は先にもあとにももういないだろうと断言出来るくらいに素晴らしい講師だったように思う。他の講師が雑談とかの印象が強いのに対して、為近先生だけは、まずは力を書きなさい、とか、電流を仮定しなさい、とか、授業中に口を酸っぱくして言ってくれていた魔法の言葉が一番に思い起こされる。そして、どんな難しい問題も為近先生の言う通りにやるとどんどん解けるようになるのが最高に楽しかったし、嬉しかった。浪人生時代を経て、成績が伸びたのは、古文と物理。古文は最初が底辺だったので、伸びしろが多かったが、物理は元々偏差値が60近くあって、一番得意な科目ではあったが、そこからさらに伸びた。それこそ解けない問題はないんじゃないか?と過信するほどになっていた。(もちろん実際は解けない問題だらけだったが)また、為近先生も雑談は最高に面白く、人形が好きで人形のために家を建てたと話していたのを覚えている。

浪人することの賛否があるのはよく分かるし、社会人になって思うことは、大学名はあまり仕事の出来不出来にはほとんど影響しないことなので、実際は浪人をしてまでいい大学を目指し過ぎても、、、というのは分からなくもないが、浪人時代が無意味だったかと言えば、あの頃よりも長い自分と向き合い、他の人や社会と分断して色々と考えたり、発見したり出来た時代はなかった。そして、そのように思考の訓練が出来たことは受験だの、偏差値だのではない価値があり、今こうしてブログなんかを書けるのも、その頃の思考する習慣があったからこそかもしれない。思春期というか、慌ただしい青春の一年を周囲と距離を置いて、しっかり自分と向き合うのも大事なのではないだろうか。

そして、その中心に代ゼミがあったので、本当に感謝している。

恋愛と結婚について

前回の記事で、軍事同盟と戦争の因果について書いたが、恋愛と結婚もまた因果関係にある。昔のようにお見合い結婚が主流であれば、必ずしもそうではないが、恋愛結婚が主流になれば、恋愛の先に結婚があるというのは普通なことである。

しかし、この2つのイメージには大きな隔たりがあり、矛盾すら感じる。

まずは恋愛と聞くと、どういうイメージを持つだろうか?それは、楽しいものとか、憧れとか、そういうキラキラしたイメージと、遊んでるとか、チャラついているとか、そんなふしだらなイメージもあり、特に学生時代の恋愛というと、教育上良くないものであり、恋愛禁止なんて言われてしまう。では、結婚のイメージとはなんだろうか?それは、幸せな家庭とか、子孫繁栄とか、そういうほんわかしたイメージと、義務とか、責任とか、そんな重いイメージもあり、特に年頃(二十代後半から四十代手前くらい?)になると、周囲からは、まだ結婚しないの?というプレッシャーがかかるようにもなる。

つまり、大手を振って恋愛出来る期間と、結婚のプレッシャーがない期間が異常に短いというのが、日本の現状かもしれない。

もちろん、そんなことはお構いなしで、恋愛は恋愛で学生時代から結婚適齢期を過ぎても楽しむという人もいるし、人それぞれではあるものの、日本はまぁ、恋愛=遊び、結婚=義務、が何となく定着している気がする。

では、他の国はどうだろうか?

例えば、欧米だと、私の感覚だと、恋愛=権利、結婚=契約。そんなイメージがある。恋愛をすること、楽しむこと、それは人間が生まれてきて、生まれ持った欲求であるから、それを満たす権利があり、いつでも自由に恋愛をすることが出来るし、むしろそうしていないと、断食をしている人のようにも思われる。そして、その先に結婚を選ぶかどうかはまた別で、結婚をしないといけないという義務はなく、パートナーをお互いに独占するために結婚するという感じで、お互いに契約して、結婚するというイメージである。だから、離婚も多くて、契約を破棄するだけという考え。離婚もまた決してマイナスイメージだけではなく、むしろ新しい恋愛に向けてスタートする晴れ晴れしい日でもある。

インドネシアムスリムの国なので、恋愛は禁止。もちろん、個人だけでみれば、恋愛を隠れてすることもあるし、キリスト教徒などもいるので、国民性というわけではないが、宗教上、そうなっていて、結婚は男性側が女性側にアプローチする前に女性側の友達や親にアプローチしてから、親同士の話し合いがあったりして、決まるとのことで、少し複雑だが、結婚=運命という感じ。特に女性側には断る自由は多少あっても、自分からはアプローチ出来ないし、事前の恋愛もないので、誰からどんなアプローチがあるのか、待つことしか出来ない。

日本の少子化問題の原因は様々だとは思うが、出産や子育ては結婚を前提にしているので、この恋愛と結婚の因果の先にある。少子化はこれまでの与党の政策の失敗のようにも見えるが、私はむしろ日本の出産や子育ての手当は相当充実していると思うし、逆に言えば、恋愛と結婚が上手く機能すれば、自然と、つまりは何も手当がなくても、出産や子育てをしたいという気持ちになるはずだと思う。もちろん、手当があれば当然その気持ちは強くなるが、子どもを産むな、と言われた時代や地域があったことから考えれば、産んでほしいと言われる社会がどれだけ幸せで健全な社会か。それだけでも、モチベーションにはなるはずなので、少子化は政策の失敗という面も多少はあるかもしれないが、主要な原因ではない、むしろ幸せな恋愛と結婚がなかなか出来ないという現実こそが問題なのではないかと考える。

例えば、学生時代に受験な妨げになるとか、部活に精を出すためとかで恋愛に距離を置き、社会人一年目になっても、恋愛に没頭したりするよりも、仕事を覚えろというのが一般的であったりする。一年目はまだ給料もそんなに高くないので、例え学生時代からの恋人がいても、なかなか結婚には踏み出せないとすると、そこで恋愛が終わりを迎えたりもし、結婚までの道のりはまた長くなる。

よって、あっという間に二十代後半になり、未婚となると、今度は打って変わって、仕事はいいから、結婚しなさいという雰囲気に周囲が変わる。すると、ここから昔のようなお見合いは流行らないので、マッチングアプリや婚活サイト、結婚相談所など、仕事を探す感覚で結婚相手を条件で探すわけだから、上手くいくこともあるかもしれないが、私は懐疑的に見ている部分も多い。

だからもっと、学業だとか、仕事だとか言って、恋愛を二の次三の次にしていた時期に、もっと恋愛→結婚という流れを意識させるべきなんだと思う。欧米のように恋愛は自由とさせ過ぎると、結婚もまた軽んじられてしまうから良くないが、人生のパートナーを選ぶということは、仕事や自己投資と同じかむしろそれ以上に大事な事だから、二十代後半から、婚活と言っていきなり始めるのは、あまりにも時間が足りなすぎると感じる。また、二十代後半から始める人は実際は少なく、三十代から始める人が多い。となると、必然的に高齢出産、そして不妊治療という事例も多くなる。

また、とても冷静に結婚を分析すると、結婚が人生にとってあまり幸せな選択ではないことにも気がつく。結婚しても、離婚をするカップルが3割近くいること、老後一人になるのが嫌だと言っても結局夫婦同時に他界することはあり得ないし、子どもが産まれる産まれないということで悩んだり、子育てで揉めたり、自由に使えるお金と時間は圧倒的に少なくなるし、結婚の合理性を見出すのは非常に難しいというのが、その理由である。そこを乗り越えるのは、やはり愛しかない。それこそ、恋愛を経て深まる愛情で、共に家族を作り、生活したいという思いが高まることしか結婚への動機はないのだから、やはり恋愛はとてつもなく大事で、結婚相談所に駆け込むことももちろん必要だが、その前にやはり結婚が目的で出会うわけではなく、恋愛の果てに結婚があるような形が望ましいのかもしれない。

そして、何よりも大切なこと。それは自分の築いた家族のように、自分の子ども達も家族を築きたいと思わせることである。

家族というものにいい印象がなければ、恋愛したって、家族になろうとか、作ろうなんて気にならない可能性が高い。よって、子育ての際には、家族の時間を大切にしたり、家族っていいものだなと思えるような、そんな子育てを心がけたい。

 

戦争の足音について

物事というのは、因果があるなぁと思う。原因があって、結果がある。結果の過去形(名詞の過去形なんておかしいが)、それは目標。となると、原因の過去形は手段となるか。抽象的で分かりにくいかもしれないが、要するに、ある動きが起これば、必然的に得る結果があるということだ。

私はそれをQUADに感じている。

QUADとは、アメリカ、インド、オーストラリア、そして日本で構成される軍事同盟。軍事同盟というものの目的は、戦争が起こった際の共同体制を組むというものであり、戦争が前提の結び付きである。つまり、戦争の準備。

我々は、歴史を学んでいるので、過去の軍事同盟と戦争の経緯を調べることが出来る。例えば、日英同盟のあとの日露戦争。日独伊三国同盟の後の第二次世界大戦。なんにも無い平和な時代だと思えば軍事同盟などは必要もないし、議論もされないはずなので、軍事同盟というのは明らかに有事を想定している、または予期してのこと。さらに言うと、軍事同盟が戦争を誘発、または戦争への距離を縮めているという側面すら否定出来ない。

つまり、これが因果になるのではないかという不安と恐怖がある。

戦争というのは、誰かの利益のために行われる。得をする人がいない戦争はなく、必ず誰かが得をする。しかし、世の中はプラスがあれば、どこかにマイナスが必ず生まれるので、戦争という明らかに大きなマイナスが見えている時、どこかにとてつもないプラスを享受する者がいることは物理学のエネルギー一定の法則のようなもので、容易に想像できる。ただ、それが誰なのか、具体的なことは分からないまでも、そうでなくては、戦争は起こらない。少なくても、国民のためではないと思う。戦争当事者で得した、とか、幸せだったという一般市民は少なく、勝っても負けても、大切な人を失うなど一般市民は犠牲を払っている。

QUADの仮想敵国というのは、ロシアと中国。つまり、QUADは彼らへの挑発行為でもある。資源を持つロシア、金を持つ中国、そんなリッチな国からQUADメンバーが何かを奪おうとする目的があると、ロシアと中国は考えるだろうから、それを必死に守ろうとするだろう。守るためにはどうするだろうか?きっと戦うしかないと考えるのだろう。

もうお分かりかと思うが、タイトルの戦争の足音とは、まさにQUADである。QUADの先にあるのは、間違いなく戦争であり、日本が壊滅する可能性すら否定出来なくなってきた。

冷静になって考えると、もし、不良グループに囲まれて、殴られたとした場合、そこから逃げることを考えると、どうするか。一気に全員を倒すことは普通は難しいので、まずは一番手近な弱そう相手を倒すことを考えるだろう。この理屈で、この4カ国ならどこを最初に狙うか、それは日本になるだろう。ロシアからも中国からも一番近いし、そこまで弱いというわけでもないだろうが、インドはとにかく人口が多いし、国土も広い。そして、インドはロシアとの繋がり(友好関係)がある。オーストラリアは遠いし、大英帝国の一員でもあるから、QUAD以外の繋がり、つまり援助があるだろうし、アメリカは言うまでもなく強い。となれば、日本が最初の標的になることはほぼ間違いない。労働人口が少ない日本は、つまり戦闘員も少なく、軍事費の面では負けていないものの、戦うことに積極的ではないので、最初の標的にはもってこいである。

QUADの目的は軍事同盟であり、ロシアや中国の脅威に備えるというのだが、実際には米国からすれば兵器の販路を拡大するという目的があり、これからますますセールスが激しくなるような気もする。それを知ってか知らずか(知ってるに決まってる)、岸田総理は防衛費の増額を発表。これは本当に防衛費なのか?逆に国を売り渡すことを約束したようなもので、売国費なのではないかとも思ってしまう。

ウクライナ問題は色々な観点から書いてきたが、未だに収束せず不幸な状態が継続している。その犠牲の中で、NATOは結束を高め、軍事費を増大させ、さらに加盟国も増えた。そして、日本もQUADと軍事費を上げることになった。この2つに加盟するのは、米国のみであり、NATOの動きも、QUADの発足も、ウクライナ問題を皮切りに、米国にとって都合の良い方向に進んでいて、色々考えてしまう。

我々はこんな状況にいて、戦争の足音が聞こえてきて、この後、どうすればいいのだろうか?日本が戦争に参加する日もそう遠くはない。何故なら、日本に戦争を放棄させた米国が、今度は軍事同盟を結ぶことを迫ってきたのだから、むしろ一緒に戦えというメッセージであると捉えるしかないからだ。そして、戦争になれば、真っ先に中国やロシアにやられてるのは日本だが、そんな様子をアメリカは見て、自分たちが彼らと戦う時の参考にでもしたいのだろう。今回のウクライナのように、ロシア批判や経済制裁はしても、結局やるのは武器提供だけという詐欺師のやり口でアメリカは情報を集めている。

私としては、不可能だとは思いつつも、QUADから出てもらうことが、戦争回避への道なんじゃないか?と思っている。何故なら、軍事同盟と戦争は、因果の関係にあると思っているから。

 

 

 

 

選挙について

選挙が近くなるといつも思うのが、選挙カーがとてもうるさいということだ。私は決まった政党を応援しているわけではないので、とにかく選挙カーのうるささだけが気になる。しかし、投票するのに、候補者を知ることは大事だし、また候補者側もアピールすることは必要なので、多少うるさくても仕方ないということで認められているのかもしれない。

以前の記事でも書いたが、子どもが公園で遊ぶ声がうるさいとクレームを入れる人は、選挙カーには何も言わないのかな?、もっと言うと、米軍関連の戦闘機がよく日本の上空に飛んでいるが、あれにも文句言わないのかな?と思ってしまう。もしかしたら、文句は言ってても、今度は行政側が対応しないだけで、子どもの声だけ制限して、選挙カーと戦闘機は野放しなのかと、選挙カーが走り始めるといつも思う。

あと、騒音でいうと暴走族の音もよく議論にはなるが、あれも道路沿いの家は苦痛だとは思うものの、選挙カーのように住宅地に入り込んでくることはあまりないし、戦闘機の音よりははるかに小さい。戦闘機に関しては、中国の戦闘機が日本の領空侵犯をしたと問題になることがあるが、米軍の戦闘機は一日に何回も見かける日もあるし、音も大きいし、余程こっちのほうがもっと規制してもらいたい。政府は中国やロシアは敵で、アメリカは味方だから、と言って、国民の生活なんてそっちのけでこんな状況を見過ごしているのかもしれないが、いつアメリカが敵になるか分からないわけで、特に外交なんていつも不安定で恒久的に仲が良いなんてことはないわけだから、とりあえず、市民生活に支障の出る戦闘機を日本の領空で飛ばすのだけは、他の国の戦闘機と同様に禁止してもらいたい。沖縄ではもっと深刻だと思うので、まずは沖縄の米軍基地から始めてもらうのがいいかもしれない。ただ、自衛隊のものは仕方ないというか、それもあまりやってほしくはないが、訓練とかはしないといざというときに動けないし、訓練も実際に飛ばないことには本当の訓練にはならないだろうし、国民として、国を守ってもらうことに繋がるので、我慢が必要にはなるかもしれない。

そして、実際の投票だが、選挙カーがうるさく騒いでも、なんにも公約だとか、政策について伝わってこない。○○党の△△は、頑張ります、日本を変えます、あなたの一票を、とかとにかく名前と顔を刷り込む目的のためだけという感じで、選挙カーによる名前の連呼で国民が正しい選択ができるのか、と本当に疑問になる。中には、子育て支援の充実を訴えてるのにも関わらず、爆音で候補者名を連呼しながら、お昼寝中の子どもたちを起こして回ったり、勉強中または授業中の児童の邪魔をしながら回るという子育てや教育を阻害する選挙カーもあるわけで、議席を取る前からすでに公約違反な政党もある。もちろん法的には問題ない行為だし、これ以上の文句も言えないのだが、そういう選挙カーをみると、子育てしたことのない人たちがやってるんだろうな、信用出来ない政党または候補者だなと思うだけである。何故なら、本当に子育ての支援をしたいなら、お昼寝してる子がいるだろうことを配慮したり、小中学校の授業中だとか、試験中だったりする中で選挙カー走らせて、しかも無意味な内容(政党や候補者の名前の連呼)を聞かされたらどう影響するか想像できるし、止めるはずである。親になって、真剣に子育てをしたことがある人なら、昼寝してる赤ちゃんを起こされる腹立たしさは絶対に理解出来るはずなので、そんな政党が子育て支援なんて言っても信じられるはずがない。

もちろん、子育ての支援を訴えてる政党だけでなくても、もっとSNSを使ったり、街頭演説とかであれば、選挙カーのような問題は減ると考える。そもそも、選挙カーの問題はうるさいだけでなく、政策が伝わらないという問題もあるので、SNSだったり、街頭演説であれば、それなりに政策の話も出来るし、国民の選択の一助となるわけである。もちろん、テレビもあるが、一つは若者のテレビ離れがあることと、テレビはどうしてもスポンサーがいて、各政党を極めて公平で、公正な報道はシステム上難しいので、政党間で有利不利が出てきてしまうため、あまりオススメは出来ない。

選挙カーがうるさいという問題よりもっと深刻なのが、そもそも投票したいと思える政党がないこと。私は選挙権を持ってから、政治には関心を持ってる方だとは思うが、日に日に政治家の質は落ちているようにも思ってしまうし、どんどん政治に関与しようという気が損なわれる。

よく選挙に行きましょう!というキャンペーンをやっているが、あれこそ投票離れを加速させているかのように思う。というのも、人間心理として、もし今まで選挙権を与えられておらず、多くの人が初めて手にするものであれば、選挙へ行きましょう!あなたの一票で政治を変えましょうと言われれば、きっとウキウキして、絶対投票しようという気にもなるが、例えば30代で選挙権歴10年以上の人から見れば、これまで投票しても何も変わらなかったという記憶しかなく、そのキャンペーンが行われる度に胸糞悪い思いをしている人からすれば、逆に行きたくなくなるのは当然だと考える。それこそなにかの団体に所属し、団体票のために頑張る人は別にして、国民の多くが所属するいわゆる無党派層にとってみれば、ますます選挙に行きたくなくなり、団体票がますます有利になる。そういう戦略かと思うくらい、あのキャンペーンはみんなを選挙に行かせようとするのであれば、無駄である。

よく言われるのが、どうせ自分の一票なんて何の影響もしない、という意識であるが、それを変えるためには、応援したいと思える政党が出てくることが必須条件。そもそも多くの人が投票するものというのは、どんなものでも、自分の一票の価値というのは低い。しかし、それでも、例えばプロ野球オールスターの選手の投票は多くの人が参加する。選挙に行かない人でも、プロ野球に興味があれば、それに投票するのは、自分の応援する選手が選ばれることを願うこともそうだが、そもそも一票でも多く集まってほしい、とか、応援する気持ちを届けたい、とか、そんな気持ちのはずだから、自分の一票を入れたところで何も変わらないのは分かっていても投票するわけだ。

だから、投票率を上げたいなら、もっと色んな政党について報道したり、紹介する場を提供するべきなのだ。政策だとか、政党に所属してるメンバーを紹介するとか、よくYou Tubeで使われる切り抜き動画を発信するとか、とにかくそういうことをやって正しく各政党のことを国民に知ってもらうべきである。

よって、大切なのは、今やっているうるさいだけの選挙カーと、胸糞悪い選挙キャンペーンではない。今、既存政党に対抗する新しい政党がたくさん出ているので、メディアが紹介しないなら自分で調べてもいいが、是非、既存政党に変わる新しい政党の躍動を願うとともに、昔の記事でも書いたように、日本の政治が、日本のための、日本人のための、日本の未来のための政治になってほしいと願う。