おもちゃについて

以前、私の大好きな番組の一つ、テレビ東京の『世界!ニッポン行きたい人応援団』で話題になったアルゼンチンのタミヤを愛するディエゴさん。タミヤの会長にも気に入られる程の熱狂的なタミヤファンで、放送後の反響が大きかったのか、その後も何回も登場した。彼はタミヤの模型が好きだったが、タミヤには他にも外国人に愛されているミニ四駆もある。

そして、タミヤにも負けじと劣らず、タカラトミートミカプラレールもまた素晴らしい。世界中にコレクターがいると言われ、その精巧な作りと、何より子どもが遊ぶ際の安全を考えた設計など、さすが日本のものづくりという配慮がある。

さらに、バンダイガンダムのプラモデル、通称ガンプラもまた、その精巧な作りと作る楽しさを追求した商品で、世界中にファンがいる。

そして、おもちゃコレクターには欠かせないのが、数々のキャラクターなどのフィギュアであり、もちろん海外にもたくさんのキャラクターフィギュアがあるが、どれも色がズレていたり、顔の表情がおかしかったり、ちゃんと立たなかったり、するものも多く、日本の作りとはやはり差がある上に、完成度の高いものは非常に値段も高いということもある。

その他にも、もちろん任天堂ソニーなどのゲーム機、またはガチャガチャなども人気は高いが、これら全てに共通していることは、大人が遊べるというか、むしろ大人向けではないか?という商品が多い。おもちゃ市場を世界的な視点で見たとき、車業界などのように日本製、または日本メーカーの商品が市場を寡占してしまうような感じはなく、たまに見かける程度である。知育玩具のようなものは、北欧などが強かったり、普通のおもちゃなら米国や中国のものが溢れている。世界中には、日本のおもちゃのファンはたくさんいるし、現に輸出も盛んに行われてはいるが、まだまだその価値や品質に見合った売上になっていないと思っている。つまり、日本のおもちゃとは未開の鉱山であり、今後、とてつもない売上を期待出来る産業なのではないか?と考えている。すでに、多くのメーカーが海外進出をして、販売活動をしているので、きっと私が思うように簡単にはいかないというのが実情なのかもしれないが、私がこう思うのには、以下の理由がある。

まず、大人向けおもちゃが売れる条件は、作りが精巧で、遊んでも、作っても、飾っても楽しい。これは日本のどのおもちゃもほぼクリアしていて、海外ではなかなか大人も満足するようなおもちゃは見つけられない。しかし、それなのにどうして海外でまだそんなに売れてないのかといえば、大人が子どもの頃に、ある程度それに触れている必要があるということがあると思っている。例えば、ミニ四駆が最初に流行った時には、そこまで多くの大人は買っておらず、子ども中心だったものが、その当時の子どもが大人になった時に、今度は子どもと一緒に遊べるようにと始めたり、金銭的な余裕が出て、当時は買えなかった高級な部品やアイテムを買えるようになったなど、様々な理由はあるが、また鮭のように大きくなって戻ってきて、昨今のミニ四駆ブームを支えている。つまり、大人もおもちゃで遊ぶ文化というか習慣というか、雰囲気の醸成が必要なのだ。日本の文化が海外に広まり出したのは、もちろんものによって、または地域によっても違うかもしれないが、1990年代後半からだと考えると、ちょうど2020年代後半、つまりあと5年後くらいに鮭が帰ってくる計算になる。

現にインドネシアベトナムで出会った30代前後の世代は、日本文化が大好きで、小さい子どもがいるという人が多かった。その子ども達が、そこそこ難しいおもちゃも遊べるようになった時、その近くにプラレールガンプラミニ四駆が並んでいることが望ましい。そして、一度手にとって楽しんでしまうとそこからはなかなか抜けられなくなるのが、日本のおもちゃの魅力。親から子へのリレーが世界中で起こり始めると、まさに日本のおもちゃ業界は大きな成長をするのではないかと思っている。

東南アジアから始まり、中東諸国そしてアフリカまで、このブームが広がっていくためには、ここ5年間でどこまで伸ばせるか、これが非常に重要になってくると考えている。

それにしても、日本は本当に色々な商材がある国だなとつくづく思う。

 

 

政党だの、派閥だのについて

日本の政治家を見ていると、こういう枠組みに囚われ過ぎて、本当に必要な主張や本当に必要な政策であっても、党の方針、派閥の方針に合わなければ、それが出てこない、または出せないという感じに見える。そして、それが国民のためにならず、ただただ、不毛な政争の種にしかなってないという事実があるのではないかと邪推している。ただ、残念なことは、これについては、各国との比較が出来るほど、海外の政治家の活動をよく知らないので、日本だけを見て、まずは書いていきたい。

そもそも、政治家になろうとする人の半数は、親だの親しい人が政治家で、所謂、サンバンの揃った人で、手っ取り早く、就職先が決まる人達であり、こういう人は党だとか、派閥だとかに忠誠を誓って、上手く上昇気流に乗ることが至上命題であるかもしれないが、残りの半数は、日本のために何かしたいという人であると信じている。そういう人にとってみると、大筋で党や派閥の統一的な動きに賛成していても、複雑な世界の動きや科学技術の進化による社会の変化、さらには新しい価値観の発生など、流動的な政局の中で、常に周りと同じ見解を保つことは難しいのではないかと邪推している。もちろん、党内、派閥内でその都度、話し合うのだろうが、必ずしもみんなが納得して方針が決まるわけではなく、多数決か何かで、党や派閥の主張が決まるというのであれば、以下のようなことが考えられないか?

例えば、何かの議案に対して、自民党はAという結論を出して、共産党はBと主張して戦う。ただ、自民党議席は80,共産党は20だとすると、結論としては、Aになる。しかし、そもそも自民党内部の方針決めの際に、Aが45、Bが35、そして共産党は全員Bを主張していたとすると、Bの方が実際には多かったことになる。つまり、多数決の原理が冒されているとも考えられる。原発の事や年金問題など、党や派閥という中に違う意見を持った人が多く、そういう枠組みを超えた議論が必要ではないかと思う。

また、もう一つ、野党だから、与党だからということにこだわって国民が置き去りになっていることも納得出来ない。例えば、コロナ対策。野党は与党である自民党をただ責めているだけで、国家の危機、特に医療関係者や飲食関係者がとても苦労していた中で、野党の協力姿勢は国民には伝わらなかった。私の個人的な見解だが、前の記事にも書いたように、日本政府、自民党はコロナ対策はよくやっていた方だと思う。確かに、感染は拡大したし、医療崩壊の危機はあった。そのなかでオリンピックをやらされたり、ワクチンを買わされたりしながら、全く未知の病気に対して、ギリギリの調整はしてきたし、それなりの成果はあったと思っている。しかし、野党は何をやったのか?もちろん、政権を運営することは出来なくても、自民党と一緒になって、色んな政策を出して、国の危機を共に乗り越えようという姿勢はなかったように見えた。

世襲議員以外はみんな国のために政治家になった人なのだから、国の危機となれば、もっと自民党と協力して、色んな政策を提案したり、国民の理解を得られるように動くべきだったのではないかと思う。そうすることで、自民党の評価があがることを恐れているのか?それなら、やはり党という壁は国民を苦しめていると言える。それとも、全ての野党は、本当は何も出来ないのか?それなら、党という枠組みの問題ではなく、そもそも政権与党になれないということを宣言しているようなものである。つまり、自民党と一緒にコロナ危機などの特殊な事例については、色々と協力することで、仮想与党となり、国民からみると、頼れる政党、または人材という印象を与えられるし、国民も助けられる。国家の危機には、こういうことが必要なのではないか?今回のコロナ対策を見ていると、どの野党も政権を任せられないと大部分の国民は思ったのではないだろうか?今の野党の目的は与党になることなのか、それとも国民を守ることなのか、そういうことが、党の論理だけで政治が進むと、国会が本来の目的を失ってしまっているように思えてしまう。本来、政権をとらなくたって、国民のための仕事は出来るはずで、自民党を批判するだけなら、マスコミや居酒屋での愚痴と変わらない。

国会議員になったら、やはり政党やら派閥やら、そんなものに固執せず、与党が正しいことをやっていると思えば、協力して国民のために頑張るし、本当に何か間違っていれば、それをしっかりと否定していくことである。コロナ問題で与党の足を引っ張っても、アメリカから戦闘機を買うことは見逃してしまう野党に、誰も期待出来ない。

よって、私は小選挙区で選ばれた国会議員が、もっと有意義な無駄のない仕事が出来る体制が必要で、それのために、党や派閥のあるべき姿をもう一度見直せないかと考えている。

政治家になることはとても大変なことで、本当に選ばれた人しかなれない。よって、せっかく政治家になれた人は、本気になって政治をやってほしい。それの足かせに、党や派閥がなってはいけない。党や派閥だけの政治家は単なる頭数にしかならない。多数決なので、数の原理のために徒党を組むのがいいのかもしれないが、それにより国民の選択肢は狭まる。時代が例えば、資本主義と社会主義しかない時代だったり、環境問題や多様性、さらに日々生まれる新しい技術が少ない時代であれば、右翼は右翼、左翼は左翼で、それなりに有意義な話し合いができたのかもしれないが、現在では右翼vs左翼という構図だけで議論をするようなことは出来なくなっているはずである。右翼であっても左翼的に、左翼であっても右翼的に、そんな柔軟性が今の政治には求められているのだ。そんな中にあって、党や派閥の方針のみに従い、頭数のためだけに国会議員をやっているのはもったいない。

政治家が政治家たる働きが出来る仕組みが欲しい。もちろん、これだけが問題ではないし、献金、圧力団体、諸外国などなど色々あると思うが、国会議員が自分の頭で、意思で、正義感で、ある程度独立して活動出来ることは肝要なのかと考えている。

 

 

MRJ復活について

どういうわけか最近話題にならないが、いまどうなっているのかな?と気になったのは、MRJ計画について。ホンダジェットという本当に素晴らしい技術をたくさん詰め込んだ小型飛行機は世界中で売れており、売上は世界一であり日本の誇りである。ただ、ホンダジェットは米国産だが。

しかし、これとは対照的に、なかなか最終試験に合格しないまま、何度も計画が延期され続けていたのが、タイトルのMRJである。これは、Mitsubishi Regional Jetのことであり、日本産の小型旅客機である。様々なところから、開発段階でも受注していたが、調べてみたら、2020年10月に開発の凍結が発表されていた。

日本において、国産民間機は悲願だったはずであり、また日本は多くの企業は飛行機の部品の製造に携わっており、多くの技術が日本にはあったはずだが、どうして凍結に至ったのか。確かに、開発が遅れたことにより、出費がかさみ、開発完了しても、黒字化する見通しがないなどの話もあったが、そもそも国策であり、利益は度外視でとりあえずは仕方ないのではないか?また、国内の航空会社が海外から買わずに住むことで国内に落とせることを考えば、ここでの赤字は税金で保証することで、特に問題なかったはずではある。

そもそも、日本は戦後、飛行機の開発、製造は禁止されていた。ホンダジェットもhondaがアメリカで子会社を作って開発を進めていたが、MRJのような純国産という意味では、政官民一体で進めていたこれが本当に久しぶりの飛行機計画だったはずである。これが凍結してしまうのは本当に残念である。

技術的な問題なのか、金銭的な問題なのか、それとも、政治的な問題なのか。

またいつか、再開してもらえないかと願うばかりである。

 

 

 

人生の楽しみについて

以前書いたように、人生というのは、与えられた時間(暇)をどう過ごしていくのかというゲームである。そんななかで、仕事をしていると、色々な要素によって、暇は潰せるのでいいのだが、やっぱり楽しみもあった方がいい。

楽しみには大きく分けて2つの要素がある。一つは、自分なりに努力をして得られる楽しみと、もう一つは、何もしなくても、待ってるだけで得られる楽しみ、である。人生でどちらが大事なのかといえば、もちろん後者の、何もしなくても得られる楽しみである。

まず、前者はどんなものがあるかと言えば、美味しいお店で食べる、好きな映画を観る、友達と遊ぶ、もう少し努力すると、大学受験に合格する、結婚する、出世する、さらに努力したら、ホームラン王になる、金メダルを取る、社長になるとか、どんどん達成が難しくなる。これはこれで人生の目標となったりして、大切なのだが、これを求めすぎて、他人を傷つけてしまったり、挫折したり、人生に余計な負荷をかけてしまう人もいるので、気をつけたいし、一番の問題は、自分がそれを達成したことで、達成出来なかった人を生んでしまうこともあることである。

よって、今回紹介したいのは、後者である。

一番分かりやすいのは、天気である。黙っていても、いつかは晴れる。晴れるとなんか嬉しい。しかし、晴れていても、太陽と海、太陽と山、太陽と木や花などの組み合わせなら気分も良くなるが、コンクリートやビルなどとは相性が悪い。なので、タワマンに住んで、土を感じず、さらに景色がコンクリートジャングルでは、鬱になりやすいのかもしれない。似たようなもので、満月もある。ある時、なんとなく月を見ていて、満月だと思わず、あっ満月だ!と言ってしまうし、それだけで嬉しくなる。月に一回は見たいものである。あとは、夜空であればオリオン座が見えたり、北極星が見えたりするのも、なんとなく楽しいし、昼間であれば、遠くに虹が見えるのも楽しい。さらに、日の出や日入りも感動的である。

季節の移り変わりも見ていて嬉しくなるので、楽しみの一つだ。なんと言っても、卒業入学•入社などに合わせて咲く桜から我々の季節は始まる。そして、紫陽花が咲き、向日葵が咲き、秋桜が咲き、紅葉を経て、冬を過ぎると、梅が咲く。何にもしなくても、季節の草花が楽しませてくれる。そして、虫たちもまた季節の移り変わりを楽しませてくれるが、私は特に夏の蝉の声が大好きで、蝉の声を聞くと気分が高揚し、それがいつの間にか聞こえなくなると、秋の鈴虫になるのもまた、毎年の楽しみである。春になって、ちょうちょが飛び始め、バッタで出てきて、蝉がくる流れもまた素晴らしい。

そして、果物もまた不作豊作はあるものの、毎年楽しめる。いちごから始まり、さくらんぼ、スイカ、桃、ブドウと春から夏に一気に美味しい果物を食べたかと思えば、秋からは冬には、梨、柿、りんご、みかんと続いていく。冬の寒さとみかんの相性がまた最高だ。もちろん、実際に旬の果物を食べるのもいいが、あっスイカだ!とか、スーパーで見かけるだけで、人生は楽しくなる。

また、趣向は少し変わるが、イベントもまた楽しい。入学式で近所の子供たちが初々しく、ウキウキ、ドキドキしながら新生活を迎えているのを横目で見るのは嬉しいし、5月になれば、鯉のぼりが出てきたり、ゴールデンウィークがあったり、7月の七夕が終わると、8月に夏休み、そしてお盆。9月はシルバーウィークで、10月11月に七五三、12月にはクリスマスと忘年会。正月休みのあとは、受験生のことを考えながら、雛祭りと卒業シーズン。これに、家族や友人の誕生日とか、何かの記念日が入ると、嬉しいイベントがまた増える。何もしなくたって誕生日は来るし、年をとるのが嫌だから、誕生日は来ないで欲しいという人がいるが、誕生日が来なくても年は取るし、そもそも人間が一人一年生きるというのは実は大変なことで、たくさんの人たちに支えられていること、たくさんの命の犠牲、それはベジタリアンだって、野菜を栽培するために大量の虫やなんかが殺されているわけで、一年間生かせてもらった感謝をする日であったっていいわけだ。また、家族や友人に対しては、生きるというのは大変だが、一年生きててくれてありがとう、と感謝し、また来年も祝えるようにと、健康と安全を祈願する日であってもいい。俺の誕生日なんて誰も祝ってくれない、ではなく、その命のために多くの命が犠牲になっていることへ感謝するだけでまた、自分の人生は豊かになる。

こう考えてみると、我々は無理に楽しもうとか、他人よりも人生を充実させようとか、何かを達成しようとか、そんなことは考えなくて良くて、単に日々を暮らすだけで、自然から、または過去の人たちが作ってくれたイベントなんかにより、一年のほとんどは楽しみで溢れてるのだ。もちろん、ここには書いてないが、嫌な日もあるし、辛いこともある。でも、そんな日も、ふと明日〇〇の誕生日だと思うだけで楽しい気持ちになったり、スーパーで柿を見つけてもう秋だなと思うだけでなんか心が安らぐ。

人生は素晴らしいなんて言うつもりはないが、とりあえず衣食住さえ、ある程度満たされていれば、あとは楽しいことだらけなはず。何もしなくても得られる楽しみを、もっとみんなが享受すればいいと思っている。何故ならこれらは、いくら世界中の人がそれを楽しんでも決してなくならないからだ。

映画について

私は色んな芸術が好きだが、その中でも映画は好きな方だ。しかし、やはり時間が制限されるので、年間20作品観れればいい方という感じで、映画好きな人に比べると、全く観てないに等しいと言われるレベルである。

しかし、Filmarksというアプリで今まで観た映画を整理しているが、400作品程度をアップしている。だいたい高校時代くらいからのものから思い出して整理しているので、年間20作品というのは、あながち間違っていない。ただ、大学生時代はかなり色んなジャンルを、そして色んなマイナーな作品を観たが、その辺りが全然思い出せず、filmarksに映されていない映画も多い。

ただ、そんな自分の映画史の中でも印象に残っている作品をいくつか紹介してみたい。

私の一番好きな映画で、DVDを買って何回も観たのは、三谷幸喜監督のマジックアワーである。これは、傑作という名が本当にぴったりの最高の芸術作品だと思った。もちろん、三谷幸喜監督なので、笑いがあることは想像通りだが、その中に色んな要素があり、さらに映画を愛する人々の気持ちが表されていて、本当に素晴らしい映画だった。

また、マジックアワーを観る前まで、好きな映画は?と聞かれた時に答えていたのが、ショーシャンクの空に、であった。これもDVDを買って何度も観たが、私の人生に映画という要素をくれた作品だった。これまで、映画を観たことはもちろんあったが、それは何かの付き合いだったり、テレビでやってるからとか、そういう感じで漫然と観ていたが、映画って面白いな、また色んな映画観たいなと思わせてくれた映画はこれだった。知力と根性、そして友情の物語。私の世界を広げてくれた作品。

また、こんな映画があるのか!と衝撃を受けた作品は、ロシア映画タルコフスキー監督の惑星ソラリスとか、ノスタルジアとか、そういう作品である。映画はストーリーテリングではなく、詩的でなくてはならない、という監督が作る映画は、同じ映画でも見る度に、というか自分のその時の精神状態とかで、随分と受ける印象が変わるという不思議な感覚があった。ハリウッド映画の姿勢で観ていると、全く状況が掴めないまま終わってしまう。これもまた、映画。

古典的な映画もまた素晴らしい。その中で最も好きな映画は、雨に唄えばと寅さんシリーズ。雨に唄えばについては、軽快な歌と踊りで、単純に気分が明るい気持ちになる。寅さんシリーズは、寅さんの金言が今でも新鮮というか、令和の時代にみるから余計に新鮮なのかもしれないが、ネット上で色々人生相談をしたり、なんかアドバイスを求めたりしてる人を見かけるが、まず寅さんを観てはどうかと思う。

また日本の映画といえば、アニメは欠かせない。その中でも世界的に評価が高いのがジブリ作品。そして、私の中ではなんと言ってもトトロ。ジブリ作品はどれも名作だし、それぞれ良さが違うので比べる対象にはなりにくいが、トトロは詩的であり、懐かしさやノスタルジックでもあり、そしてトトロというキャラクターが魅力的であるという見どころ満載の贅沢なフルコース作品である。何度観ても飽きないし、また、親になってから子どもに見せたい映画No.1。しかも、歌もまた素晴らしい。特に『さんぽ』の方のオーケストラバージョンは、高揚感があり、クラシック音楽のような品があり、それなのにどこか親しみやすい。国際的な場で日本の代表曲としてこの曲が使われてもいいような気さえもする。もちろん歌詞は替えないといけないが、映画音楽だけに収まってしまう曲ではないと思うほど、完成度の高い曲だと思っている。

そして、こうやって映画について語っていると、映画の凄さがどこにあるのか分かるようになった。それは、それは映画というのが、色んな芸術の組み合わせであるということなのだ。まずは、文学的な要素。文学と言えば小説や随筆、またルポや論説、さらには詩など色んなジャンルがあるが、どれも映画の題材になり得る。ショーシャンクの空に、なんかはそのストーリー性が際立っていたように思うし、タルコフスキー監督は詩的な映画を常に目指していた。そして、絵画的な要素。それは、一瞬を切り取る写真や絵画、その一瞬が繋がる映像。映画は一瞬一瞬が全て絵画であり、演者の表情、衣装、または背景や小道具など、目に訴えかけるものがとても多い。マジックアワーでは、この辺りのこだわりがまさに細部に行き渡っていた。そして、最後は音楽的な要素。もちろん、曲が流れることもそうだが、様々な効果音もまた映画の魅力である。トトロの名曲もそうだが、雨に唄えばの音楽と踊りのシーンは最高である。

映画は芸術の総合商社であり、幅広く色んな芸術のいいものを取引している。もちろん、映画によって取り扱っている商品(芸術)の違いはあるので、好きな映画を探してみるといい。オススメの探して方は、友人などから好きな映画を聞くというのが一般的かもしれないが、失敗を恐れず、なんでもいいから、テレビで放送されているものなどすぐに観れる映画をまずは観てみるといいと思う。よっぽどジャンルとして苦手というのがなければ、例えば怖いのが苦手なのにホラー映画を観るとか、そんなに観て損したということは起きないと断言できる。何故なら映画とは、どの作品も、多くの人が、多くの時間をかけて、細部までこだわり抜いているからだ。

ここには具体的な映画の名前は挙げていないものの、なんの先入観もないまま観た映画で観て良かったと思った作品は山程ある。そのほとんどが邦画であるが、いつもどれも素晴らしい。何故いつも邦画かというと、ハリウッド系の映画はだいたいテレビをつけると激しく宣伝していて、なかなか先入観無しで観ることが出来ないが、邦画はそこまで宣伝活動に力を入れてないせいか、公開まではほとんど内容が分からないまま観れる。あえて、ハリウッド系でそういう感じで面白かったのは、Table19とThe Intern。

コロナ禍の自粛生活で、たくさん映画を観るようになったという人が増えたと聞いているが、コロナ禍で飛行機に乗らなくなった私は最近あまり映画を観る機会がない。だから、きっとその反動でこんなブログを書きたくなったのかもしれない。

 

敬老について

今日は敬老の日。そんな日にこんなことを考えてみる。

少子高齢化が進み、労働人口が減り、高齢者が増えることで税収が下がるのに、医療や介護の社会保障費が増えるので、日本の財政が今後危なくなるというニュースはよく目にする。

しかし、一方で高額な戦闘機をアメリカから買ったり、オリンピックで大赤字出したり、最近最もお金使っているのが、嘘かホントか分からない温暖化対策。さらに、コロナ対策で使途不明金が大量に発生した。こう見てみると、財政はまだまだ余力が有るようにも見えるので、ここはそんなに心配することないのではないか?と思っている。色んな無駄を考えると、社会福祉にかけられるお金はまだまだある。そして、これからもどんどんかけるべきだと思っている。社会保障費というのは、戦闘機やワクチンを買うのと違って、国内にお金が落ちるので巡り巡って、また税金として返ってくる。

そんなお金のことより、若者にとっては、むしろ、高齢者が多くなることで、全ての行政が高齢者向けになることの方が恐ろしいのではないか?と考える。

私の尊敬する田中角栄氏は、高齢者が安心して暮らせる社会を目指した。私も、これまで戦後の日本を発展させ、そしてmade in Japanを世界に広めたのは紛れもなく、現在後期高齢者になりつつある、団塊の世代やその前後の世代であり、彼らへの感謝を老後の安心できる暮らしという形でしっかりサポートしていくことに、何の異論もない。むしろ、どんどん推進すべきだと思っている。

しかし、社会や政治が高齢者を中心に回ってしまうことには危機感がある。

以前の"日本死ね"の記事でも書いたが、子どもの騒音問題。子どもは言ってしまえば、騒音をたてるのが仕事だ。元気に走り回ったり、大声で泣き笑いすることで心身ともに大きくなっていく。子どもに制限をかけては駄目なのだ。しかし、子育てが終わった老人からすれば、うるさいとなってしまう。そして、公園のルールが変えられてしまう。ボール遊び禁止も、高校生以上がやれば危ないというのは理解出来るが、小学生の遊ぶボールが危ないというのは、それを避けられない方に問題があるし、小学生にボール遊びを禁止してしまうことの方が日本の将来にとって危険かもしれないのだ。公園での遊びが制限されてしまっては、家にこもるしかなくなり、当然家ではお菓子を食べてテレビを観て、You Tubeまたはゲームをやるということになる。最大の損失は子どもたちが友達と遊ぶことが制限されてしまうこと。小学生時代は人間関係の基礎を学ぶ時期で、その放課後はとても重要だと思っている。次の損失は、子どもの運動能力と健康である。球技というのは、動くボールに合わせて身体を使う必要があるので、反射神経と運動神経の訓練になる。また、身体を動かすこと自体に肥満の抑制や筋力の発達があるだけでなく、日光を浴びることによるビタミンDを得ることが出来る。これらも、うるさいとか、危ないとか、いわれの無い苦情により、子どもたちの健全な成長が阻害されてしまう。

 

テレビ番組もそうである。コンプライアンスと叫ぶのは、テレビを観ている層が高齢者層であり、彼らは時間はたっぷりあるので、何か問題だと思えば投書する。これが、ここまでテレビを追い込んだのだと思っている。よって、若者が望むような非日常な内容の放送は出来なくなり、老人の望む穏やかな番組が増え、若者のテレビ離れが加速する。しかし、人口比、またはテレビの視聴者層からみれば、老人を相手した方がいいということで、どんどんそちらにシフトしていく。その結果が、散歩•クイズ•健康番組が三種の神器のように増え続ける。これ自体には子どもに与える影響は少ないものの、私の子ども時代は学校でみんなが同じテレビ番組をみて、歌にしても、お笑いにしても、ドラマにしても、共通の話題があったが、テレビ離れしてしまった今の世代は何が共通の話題になっているのだろうか?昭和生まれからみると、テレビをみんなが観なくなってしまうのはなんとなく寂しく感じる。

政治は顕著である。数が少なくて選挙に行かない若者と、数が多くて選挙にも行く高齢者。政治家ならどちらに合わせた政治を目指すだろうか?主な日本の政治家というのは、政治家になることが仕事であり、何か日本のため、地域のために何かをすることは二の次という人が多いように思える。だから、居眠り議員が減らないし、公約は守らないし、不祥事ばかりだし。こんな体たらくな政治家にとってみれば、特に主義主張がないので、手っ取り早く手堅い高齢者の票が欲しいということになり、そこを狙った選挙戦略が多くなる。数が少なくて、忙しく選挙に行けない若者受けする政策には何の魅力もないのであろう。

 

ただ、こんなことよりも最もひどいのが、公然と蔓延る年齢差別。

採用において、女性だから採用しないなどの性別差別は厳しく処罰される。同じように、外国人、障害者、被差別部落問題など、就労に関する差別はなくなっているのに、年齢差別、つまりは定年退職はなくならない。アメリカでは、年齢により雇用を継続しないということはない。パフォーマンスによるか、または本人からの引退宣言が必要になる。年齢を迎えたから退職というのは、高度成長期のように若者が溢れている時代には必要な措置だったかもしれないが、今では不要であり、外国人を受け入れるだとか、女性に働くことを強いる世の中に、完全に矛盾している。年金が貰えないという不安を抱えているのに、仕事まで辞めさせられたり、または給料を年齢を理由に下げられたり、これからの老人、つまり今の若い世代の未来は厳しい。しかし、とは言え、今は45歳定年制や70歳定年制など、定年制度自体の見直しは局地的に始まっている。ただ、私としては、そもそも年齢で何かわ決めること自体がやはりおかしいと思っているのだ。定年退職後の再就職もまた、年齢により差別を受け、年収はガクっと下がる。

 

最後に一つ。これはこれで別途ちゃんと書かないといけないのかもしれないが、社会保障費、その中でも医療費が高騰していることの原因は老人が増えたことよりも、ガンやら人工透析やら、糖尿病など、そういう病気に対する利権がすごく関わっているのではないかと思っている。ガン利権は最近、色んなところで明るみに出てきたので、知ってる人も多いだろうが、人工透析なんかも病院にとってはドル箱患者とも言われている。病気を治すことよりも、病気を放置して治療し続けて金のなる木として患者を扱うことが公然と行われているというのだ。医師もビジネスである。製薬会社も保険会社も、みんなビジネスである。その病気が存在することが飯の種になっていることがある。変な話、ゴキブリがいなければ、ゴキブリ対策商品は売れない。ガンが治療可能な病気になれば、ガン保険も、ガン検診も、抗がん剤も、ガンの医療機器も、ガン病棟も、ガン一大産業がなくなってしまうことを意味する。

 

未来のことは想像しても意味がないかもしれないが、我々の老後は、仕事なく、年金なく、命はあっても2つか3つの病気を抱えて、30年後の敬老の日を暮らしているのかもしれない。

敬老の日。色んなことを考えさせられる。

 

農業について

学生時代に、いくつかのビジネスアイデアコンテストというものに参加し、農業ビジネスについて書いて、賞をもらった。その中の一つの賞金としては、10万円くらいで、学生にしてはものすごい大金だったのを覚えている。

あれから、農業に対して色々考えることもあったが、仕事とは関係ないので、あんまり深く考えることはなかった。

しかし、最近、以下のようなニュースを見て、今回、久しぶりに農業について考えてみた。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210913/amp/k10013256811000.html?__twitter_impression=true

大豆の価格が上がってるとのこと。これは、農業の問題、経済の問題の両方から考える必要があるが、まずは農業側のことだけ、今回は書いてみたい。

まず、自給率100%に対する日本人というか、政府の飽くなき挑戦はよく知っているが、それが米ばかりに集中していて、小麦、大豆には何故か無頓着。むしろ、米より大豆の方が幅広く日本人の食卓に浸透しており、小麦もだいぶ食卓に並んでいる。野菜類はだいたい自給率100%に軒並み近いので、やはり課題は大豆と小麦だと思う。

私は自給率が高いに越したことはないと思ってはいるが、米のように補助金で無理矢理自給率を100%にし、競争力を失ってしまう産業を作るのはどうかと思うことと、逆に、食卓に多く並ぶ小麦や大豆は10%近辺であることや、家畜のエサなどはほぼ100%輸入品であるから国産の牛肉と言っても食べてるものは海外製だったりもする、という2つの方針の矛盾が問題だと思っている。

まず、貿易というのは、お互いに得手不得手を補完し合うためにやるものであり、自分の国でたくさんいいものが作れればそれを売ればいいし、自分の国で生産出来ないものは買えばいい。だから、無理矢理全てのものを日本で作る必要はなく、頼ることもまた国益に繋がる、というのが前提である。まず、米というのは、日本の主食であり、他の国の方がいいものをたくさん作れたとしても、日本でちゃんと作るべきだということで、保護しながらやってるのかもしれないが、少しやり過ぎな気もする。アメリカに住んでいた頃、日本の米は高くて買えなかったので、同じジャポニカ米であるカルフォルニア米を食べていたが、遜色無い味であった。もし、また米不足にでもなったら、カルフォルニア米を輸入してはどうかと思った。また、大豆や小麦の主な輸入先はアメリカである。これは、また何かそういう密約のようなものがあるのかよく分からないが、こんなによく日本人が食べるものを、そして決して日本で作れないわけではないものを大量に輸入し続けているのは、何か理由があるのかと疑ってしまう。大豆は、醤油、味噌、豆腐、納豆、枝豆などなど、日本食の根幹を担うものが多く、また小麦にしてもパン、うどん、お好み焼き、など、こちらもまた小麦を食べない日はないというレベルである。よって、米にしても、大豆や小麦にしても、我々の食卓から消えないように調整していくのが、政府のやることであり、今はあまりにも方針がアンバランスであり、危険な状態と言える。

まず、米については、日本だけで作っているから、日本が災害や天候不良があった際、たちまち足りなくなるが、普段は規制して輸入してないものだから、大慌てする。以前の米不足の時がそうだ。また、米の保護貿易のために多くの資金が投じられているが、それにより他のものを衰退させているのかもしれないという問題もある。よって、日頃からカルフォルニア米ようなものを輸入しておき、ポートフォリオではないが、リスク分散は必要である。また、大豆と小麦は、国産比率をもっと上げることと、輸入先の多角化をすることが重要である。どちらも日本の食卓からは切り離せないものなので、例えばこの先日本の経済力が下がっていくと、(すでにその傾向はある)たちまち、輸入品の値段が上がるだけでなく、そもそも買えなくなるということも想定される。そんな時に国内である程度生産出来る基盤を整えておかないと、大豆と小麦のない生活を余儀なくされる。輸入先の多角化も重要で、今回の記事のようにアメリカからの船舶が、という問題もそうだし、アメリカの豊作不作に値段が左右されるし、一番の問題は、遺伝子組み換えなどアメリカが進めているものをそのまま受け入れざるを得なくなることである。それこそ、アメリカ以外からも輸入していれば、遺伝子組み換えは国民に食べさせたくないので、別の国から買おうということになるが、今のようなアメリカ頼みでは、それも出来なくなる。私は遺伝子組み換え大豆が危険だとか言っているわけではなく、選択肢がないことが問題だと言っているのだ。もちろん、遺伝子組み換えも危険なのかもしれないが、それははっきりとは分かってないはず。

また、遺伝子組み換えにも似た話で、TPPなどで日本の農家が潰れるという話もあったが、それもそのはず、そもそも輸入品と国産では、同じ土俵で戦ってない可能性があるのだ。まず、日本の農家というのは、必ず農協の基準に合わせて野菜などを作る。それは、色んな規制があり、大きさ、形、色など厳しすぎるとも言えるもので、それを外れると売りに出せない。よって、廃棄が多くなり、売られるものの値段が上がる。しかし、輸入品は農協のチェックが行き届かない。全くチェックされてないとは思わないが、日本の農家が受けている厳しいチェックほどでないと考えられる。特にどんな化学肥料が使われているのか、どんな農薬が使われているのか、もはや相手の申告以外では、確認のしようがない。よって、国産と名のつくものは、高い品質が担保されていると言えるが、それは本当に必要な品質なのか、廃棄を減らし、値段を下げる努力があってもいいのではないか?という気もする。

そして、民間企業的に日本の農業をみてみると、強みもたくさんあり、輸出できる技術も見えてくる。例えば、韓国で2018年に行われた冬季オリンピックカーリング女子が食べていたイチゴ。とても美味しいと評判になったが、元はといえば、日本の生み出した品種。どうしてなのかはよく分からないが、今は韓国でも作られているとのこと。糖度や色合いなど、色んなものが従来のイチゴとは違い、日本の開発力が世界に通用したことを証明する一幕でもあった。すでに、クルマやその他の工業製品は、日本の技術を色んな国に持っていき、現地生産をして売るということが行われている。私の考えでは、日本の農業技術を、工業製品と同じように世界的に展開出来ないだろうか?と考えている。実は日本の農業というのは、地域ごとに、ブランド製品を作っており、門外不出の技術としてしまっているが、そうすることによって、無断で盗まれることがあったり、そもそもマーケットを限定してしまっているという問題が出ている。よく海賊版と戦うためには、本物をそれより安く売り、海賊版が太刀打ち出来なくなるようにすることと言われるが、まさにこれもそうで、現地にその品種のプロが赴き、現地の気候などに合わせながら作ることで、いいものが安く作れるので、海賊版にも勝てる。以前書いた種子法廃止はこの辺りを上手く突かれたという印象で、日本農業の衰退に繋がる。

 

このように色々考えてみたが、農業というは他の工業製品のように、優秀な一般企業がどんどん進められるというものではなく、呑気な官僚や地方自治体、農協などが絡む非常に動きの遅い体制になってしまっている。だから、優秀な日本の農家が苦労するのだ。もう少し大局観を持ち、戦略的に日本の食卓に安全で美味しい農作物も効率よく、リスクヘッジをしながら届け、日本が農業で稼げるシナリオを書ける農林水産省であってほしい。私は農業の専門家ではないので、間違っている情報や思いつきが多いかもしれない。実際はすでに色々やってるのかもしれないが、データだけをみると、やはり物足りなさを感じてしまう。農業は伝統的に規制の中にいるが、もしそう規制するなら、規制する側はちゃんと責任をもって、農家を守り、発展させていくべきであるが、どうもその成果は見えない。