異次元の少子化対策 part2

前回、異次元の少子化対策について、半分批判を書いて、半分アイデアを書いてみた。

今度は、もう少し違う視点で書いてみたい。それは、少子化が問題か否かとか、子育て支援のあるべき姿とか、そんなことはさておき、そもそも少子化の原因は何か、そしてそれを是正するにはどうすればいいのか?という点にだけ絞って書いてみたい。

https://youtu.be/eLpwNP69FS4

このリンクをつけてしまうとそれまでかもしれないが、今の制度や風習、またはモラルなどを維持しながら、生まれてくる子どもを増やしたい、ということを考えるなら、結局、結婚する人が増えること、そしてなるべく若くして結婚すること、が手っ取り早いのは明らかである。

まずは、結婚する人を増やすにはどうすればいいのか。一昔前であれば、かなり周囲からのプレッシャーや親が無理矢理結婚をさせたり、本人達の気持ちを二の次にした形での結婚も多数あり、成婚率は高かったかもしれないが、幸せな結婚だったのかは疑問が残るので、一昔前のやり方に戻すというのは考えにくい。

よって、以前に書いた、恋愛と結婚というタイトルのブログが、未だに私の答えである。

次に今度は晩婚化をどう是正するか、である。

https://news.yahoo.co.jp/articles/f2829ac79684007b4ddb4575b6da7ce9e70a4bd2

これも、山口真由さんの記事を貼り付けてしまうが、とても興味深いので、読んでみてもらいたい。

以下抜粋。

「私はもう少し早くに、自分がキャリアとライフをどう両立させるつもりなのか考えておけばよかったなと思っているんです。若い頃は転職や留学など、そのときどきで自分のキャリアを確立するのに精一杯で、どうしてもライフ──とくに子どもを持つことが後回しになりました。でも、同期の男性たちはそういうことをあまり考えずに仕事に邁進している。男女平等といわれて育ち、学生時代は自分が男性に劣っているなんて感じたことは一度もなかったのに、生殖年齢については圧倒的な差がある……。そういうことを女性は20代30代で認識して、将来を考えておくべきだと思います。 さらに、私は最初こそ『卵子凍結によって人生の選択が自分の意のままになる』と楽観視していたけれど、実際に経験してみると『これはこれでキツイな』と思うところがありました。だからこそ、そういう自分の失敗談を後輩の女性たちに伝えておきたいと思ったんです。卵子凍結をおすすめするつもりはありませんが、将来子どもを持ちたいと考えているならAMH値くらいは測っておいたほうがいいよ、って」

抜粋終わり。

多分、今の医学だったり、人間の身体が劇的に進化しない限り、男女ともに妊娠のしやすさというのは、やはり若い時期、特に20代であることは抗えないのかもしれないが、それを大々的に言うことは問題視されているなかで、山口真由さんは堂々と自身の経験を踏まえ発信されていた。ただ、考えないといけないのが、高齢出産は妊娠や出産だけに障壁があるわけではなく、子育てや介護にも大きな影響が出やすいとされていることも理解する必要がある。以前、とある地域に遊びに行った時に、ここではみんな40後半でおじいちゃんだよ、と言われてびっくりしたのを覚えてる。まだみんな若くて、健康そのものでおじいちゃん、またはおばあちゃんになるということは、当然孫の面倒はみれるし、70代でひ孫もみれるという幸せな人生になる。逆に親子二代で高齢出産をすると、初孫が80代というのも珍しい話ではなく、40代で子育てと親の介護の両方をやることになる状況も考えられる。いくら今の80代が元気とは言え、40代のおじいちゃんとは比較にならないだろう。

では、晩婚化の原因は何だろうか?そして、国はどんな支援をしていけばいいのだろうか?

まず、考えるのは結婚する相手がいて、気持ちとしてはいつでも結婚出来るのに踏み出せないケースに絞って、何故踏み出せないのか、考えてみたい。

一番の理由は経済力の不安であろう。例えば、浪人せずに大学に入り、そのまま就職すると23歳から社会人であるが、その段階ではまだ家族を養える給料をもらえてないし、貯金なんてない人が多いので、結婚資金、新婚旅行、ましてや子育て、さらに新居の費用などなど、とてもお金が足りない。しばらく社会人として働き、お金を貯めること、そしてそれなりの収入を確保するまでは結婚に踏み切れないという状況である。

次はキャリアの問題である。結婚したり、さらに子どもが出来ると、当然仕事に費やせる時間は減ってしまう。一昔前までは、男女でこの状況は違って、男であれば子育ては妻に任せて今まで通り仕事に精を出すなんてことも出来たのかもしれないが、今は男女ともに育休制度があり、性別に関わらず子育て期間中には他の人と同じようには働けない。となると、必然的にキャリア形成、特に社会人になりたての5年くらいの大事な時期に結婚に踏み切れないというのは理解出来る。

つまり、お金とキャリアがクリアされれば、結婚出来る相手がいる、という前提であれば結婚を踏み止まることなく、早期に結婚出来るカップルが増えるのではないだろうか?そのためにはどうしたらいいのか?答えは簡単、就職を早めればいいのである。

私は社会人10年以上やってきて思うことは、多くの職業、特に一般的なサラリーマン、公務員などなど、大学または大学院での勉強が必須である職業というのは少ない気がしている。もちろん、大学が完全に不要かと言えばそうではないのは分かっているが、高校までの知識で十分、社会人として活躍できると確信しているし、逆に大学で学んだことが社会で活かされてるケースはあまり多くないとも感じている。よく研究者は大学院まで言って企業の研究開発に就職した方がいいと言われるが、それにしても、高卒で企業に入り、そこで仕事を通じて学びながら一人前になる方が近道である。企業は大学ほど教育出来ないとも言われるが、私の印象では、大学の教授より、企業の上司の方が説明は分かりやすいし、教え方や導き方は丁寧だと感じている。

文学部であったり、理学部であったり、そこで学ぶことはとても専門的過ぎて、そもそも小学校で習うことですら大人になってからその知識は必要なかったとか言う人もいるくらいなので、大学の勉強なんて尚更なのである。もちろん、医者や弁護士、教師や学者などの職業を目指す場合は別だとは思うが、社長とか、クリエーターとか、商社マン、とにかくほとんどの職業はわざわざ大学に行く必要はない。

しかしながら、例えば東大や早慶などの一流大学の出身者が他の大学の出身者よりも仕事出来ないことがあるのか、ということについてはNOであると思う。やはり、一流大学出身という肩書のある人は仕事もよく出来ることはほぼ間違いない。しかし、ここで言いたいことはそういう肩書を持てる人というのはそもそも能力が高く、それは大学の4年間または大学院も入れた6年間で培われたものというより、元々の能力であると思っており、それであれば、大学ではなく、企業で、または社会で仕事をしながらスキルアップした方が効率が良いと感じる。それこそ、現代においては終身雇用は廃れてきており、転職が一般的であることを考えれば、高い能力のある人がどんどん流動的に適材適所へ動けることになれば、日本経済全体としても良いし、早くから働くことで労働人口も増えることになる。

また、早く就職することのもう一つのメリットは親の学費負担が減ることである。大学の学費は高額であり、年金問題を抱える親世代(団塊ベビー以下)は、戦々恐々としている。しかし、高校までは無料化の流れになっているので、高卒で働いてくれることになれば、老後の心配がかなり軽減される。ともすれば、新しく子どもを計画している家族にとっても、教育費の心配がなくなるので、産みやすくもなる。

よって、異次元の少子化対策というのであれば、社会として政府主導で、大学へ行くのはごく限られた職業を目指す人のみで、ほとんどの企業は高卒で雇うように促すというのはどうだろうか。社会に出て思うことは、社会人の価値は、学歴ではなく、職歴であり、学生時代にどこで何を学んだかというのは、その人も何となくのポテンシャルが伝わる程度であり、実際社会人として、何をやってきたのか、これが本当のスキルを測る指標になる。

また、キャリア形成も18歳から働けば5年目を25歳以下で迎えられ、若くして、十分なキャリア形成が可能になる。

次に、若くして結婚すると、難しいのが家の問題である。就職してすぐに結婚したとしても、今度は住む場所には困ってしまう。一番いいのは、親との同居であるが、今はそんな大きな二世帯住宅に親が住んでいるというケースもあまりなく、また子どもが上京して家庭を持つことも多いので、なかなか難しい。よって、賃貸か購入かという話にもなるが、どちらにしても経済的な負担は避けられない。

また、今は少子高齢化が進み、日本の人口は減少傾向にある。よって、空き家はどんどん増えていることになるが、何故か新築マンションやら、新築一戸建てもどんどん建設されている。これは日本人の新築好きからくる現象なのかもしれないし、政府の思惑なのかもしれないが、どっちにしろ、中古物件として出回ることより、空き家として放置されがちなのである。

このような空き家は大抵、処理に困り、地域の治安や外観にも悪影響があったりもする。よって、政府が二束三文で買い取り、または持ち主不明なら強権発動で没収してしまい、新婚夫婦にプレゼントするというのはどうだろうか。

システムとしては、日本全国の空き家を政府が買い取りしたり、没収したりして、大きなデータベースを作り、例えば男女のどちらかが25歳以下であれば、その空き家から好きなものを選んで、タダでもらえるようにする。また、もらったものなので、もちろんリフォームやら改造は自由だし、その後売却も可能だが、売却した場合、例えそれがまだ25歳以下の新婚であってももう一度空き家をもらうことは出来ない。

このシステムなら若くして結婚しても、家の心配はなくなるので、またハードルが下がるし、同時に日本の空き家問題の解決にも繋がる。ただ、建築業界や不動産業界からは反発があるかもしれない。しかし、空き家を渡すことでまず家の良さに気が付き、家計に余裕が出た段階で新築物件に憧れが出てくるということも考えられるので、むしろ今より活況になるのでは?と考えている。また、これにより結婚を選択するカップルが増えれば、当然子どもも増えてくるはずなので、人口増加で建設業界、不動産業界は沸くはずなので、反発は最小限に留まると考えている。

さらに、空き家は東京など首都圏にも多いが、地方都市にもたくさんある。今は空き家バンクだとか、地方への移住を促進するための補助付き空き家販売なども行われているので、そのような既存のシステムと政府主導での空き家プレゼントが互いに協力し合えば、地方活性化にも繋がっていくのではないかと考えている。

よって、異次元の少子化対策として、中卒、高卒で社会に出ることを推奨し、若い新婚カップルには、お好きな空き家をプレゼントするという対策はどうだろうか?

TikTokについて

アメリカと中国の覇権争いの一つとして取り上げられているのが、アメリカでのTikTok禁止法案。

実際にどうなるのかは不明であるが、こういう案が米国で出たということ自体とても残念であり、かつ民主主義や自由主義の敗北なのではないか?と考えさせられた。

遡れば、東西冷戦からになるのか、当時のソビエト連邦と米国の、社会主義vs民主主義の構図があって、日本では、前者は国や政府が国民を統制して、後者は国民が政府を動かすという形で報道されて、教育もされてきたので、民主主義は素晴らしい、言論の自由と開かれた報道、国民のための政治なんて思って生きてきた。

しかし、日本において、だんだんと民主主義の綻びを見かけるようになる。それは、例えばNHKという組織であったり、その他のマスメディアというのが、誰のために、何のために、どんな放送をしているのか、ということが明るみに出ることが多くなったことで、民主主義の根幹を担うマスメディアが信用出来ないという人が日本で増えてきたことである。つまり、やっていることが、"社会主義国家では情報が国や政府によって統制されています"、と習ったことと同じことが起きていると多くの人が感じている。むしろ、あたかもそうではないようにして、実際にはそうなってるという時点で、それを最初から認めている社会主義の方がマシなのではないか?という気さえするのだ。

言うまでもなく、日本の民主主義は欧米から輸入されたもので、明治時代から人権などの概念を取り入れ、戦後のGHQの下、米国式の民主主義が今の日本の民主主義のお手本になっている。よって、日本が偏重報道があったりで、隠れ社会主義国家になったとしても、米国は今までのように、理想通りの民主主義を貫いてもらいたい。つまり、国民が自由に発言をし、マスメディアが公平に国民の意見を吸い上げ、政府を監視し、不正を暴き、政府と国民の良い関係構築を促し、本当の意味でof the people by the people for the peopleの政治を実現してて欲しい。

さて、話はガラッと変わって、日本から中国へ出張したりすると、LINEやらInstagramなどのSNSが使えないということを経験する。それは言わずと知れた当局からこれらの媒体の使用が認められていないためである。最初、このようなことを知った時に怖いと感じたのを覚えている。日本では普通に使えてるものでも規制して、監視して、自由を奪っているというところへ短期間でも滞在するというのが、何となく怖かったのだ。そもそも、日本の報道の中国共産党は怖いという先入観の植付けもあり、余計にそう感じたのかもしれない。

そもそもなんで中国共産党はこのようなアプリを禁止するのかといえば、このようなアプリが個人発信で何でも情報を拡散出来るからである。つまり、統制が取りにくいというのが一番であろう。しかし、完全にそのようなSNSを国民から奪えば影で横行するだけだから、同じような機能を持つアプリを中国共産党の管理下で作り、そちらを使えと促しているのだった。

米国発信の様々なSNS はやがて世界を席巻するようになる。特にfacebookYouTubeTwitterInstagramなどの影響力は絶大で、テレビや新聞など既存のマスメディアに触れている時間よりも、若い世代は、と言っても40代以下は、長くなっているのが現状である。これらのSNSが優れているのは、とにかく検閲無しで素人、つまり一般市民が何の規制もなく、まずは好きなことを好きなようにパブリックに発信出来ることである。もちろん、内容によっては規制されることも多いが、とにかく一度は世に出る。こういうものがなかった時代には一般市民の意見は近くのコミュニティのみで共有され、新聞などマスメディアへの投稿とか、何か特別なことがない限り、見ず知らずの人への発信なんて到底出来なかった。

つまり、SNS というのは民主主義の根幹である言論の自由報道の自由を体現したものであるように思っていた。しかし、いくら素晴らしいものでも、使い方を誤ってしまう人も多く、問題があることは百も承知であるが、それをはるかに上回るほど、有象無象が発信できるようになったことはとても意義深いと思っていた。

しかし、それをやはり社会主義国家の中国は規制したので、伸びた羽が取られたような気がして、怖いという印象を持ったのかもしれない。そして、そのようにSNS を規制していた中国政府に対し、欧米諸国というか、特に米国は反発していたし、報道の自由度のない国として批判してきた。日本も報道の自由度ではしばしば問題になるが。。。

そんな中国から出てきて、世界を席巻したSNS が今回のテーマのTikTok である。

最初のイメージは、音楽に合わせて踊る動画を投稿するアプリというイメージで、全く興味がなかったので、私はインストールしたことがなかったが、最近米国がこれを禁止にすると発表してから、色々見てみると、短いYou Tubeというか、ダンス以外にも色んなことが発信されていることに気がついた。つまり、これまで米国発信だった様々なSNS とほぼ同じものになり、また登録者数というか利用者数も匹敵し、そして利用している年齢が若い世代が多いことなど、影響力が強大になってきているらしい。

ここまでをまとめると、民主主義の根幹は言論の自由であり、米国は民主主義の日本のお手本。そして、SNS言論の自由の象徴であり、それを規制していた社会主義国家の中国政府は欧米から批判されていた。

そして、今回、米国がSNS を規制する案を出してきた。理由はTikTok が中国政府の管理下にあり、情報操作が行われたり、個人情報が中国側に漏れる危険があるからだとか、言っているが、これはそのまま中国が米国のSNS を規制したときの理由とほぼ合致しており、皮肉にも、欧米がこれまで批判していた中国政府の対応と同じことをやってしまっていたと言わざるを得ない。まさに、天に唾する状態なのではないかと思う。

もちろん、細かいことはあるし、陰謀論や裏取引なども関係するのかもしれないが、私のような一般市民が知り得る情報だけで、この米国のTikTok 規制案をみると、結局、民主主義には限界があり、社会主義的に情報を統制し、国民を管理しないといけないと、米国が民主主義の敗北、国家と報道、マスメディアのあり方について、ロシアや中国と同じ立場になってきたのではないかと危惧している。なので、冒頭で書いたように、残念だと思うとともに、民主主義や自由主義の敗北に思えたのだ。

思い出してみれば、Twitter 社がトランプ大統領が差別的発言をしたので、アカウントを抹消するという措置をしたが、差別的発言だけを削除すれば良かっただけではないか?とも思った。その他You Tubeや他のSNS でも政治的な発信はバンされるということが起きているとも聞くので、米国発のSNSでも報道規制、検閲が行われ始めているのでは?となると、米国はすでに民主主義国家ではない?、とまで勘ぐってしまう。

SNS はまさに一般市民が得た民主主義の切り札である。アメリカが銃社会になったのは、政府だけが軍隊を持ち、その軍事力でもって、国民を脅し、統制することがないように、国民も武器を持ち、いつでも政府からの攻撃に対抗出来るようにしている、と聞いたことがある。もし、そうであれば、銃社会というのもあながち悪くないのでは?という気がしていた。

そして、SNS は、ペンは剣よりも強しではないが、武力ではなく、知力で政府に対抗する手段になり得る。銃社会の米国は今、SNS の規制を進めている。いわゆる刀狩り。民主主義の行方が気になる。

人類の始まりについて

最近、息子に最初の人間って誰なのか?ということを聞かれてドキっとした。それは、もうそんなことを考える年齢だったかと成長を感じたことと、そもそもどう答えていいのか迷ったのと、2つの理由だった。

そして、「おお、そんなことを考えることになったかぁ。お前はどう思う?」

と答えるのが精一杯だった。そして、息子は、「人間の前にも誰かがいて、そもそも地球って最初からあったのか?気になるぅ!」

と言って、鶏とたまごのパラドックスにはまり、それ以上の質問は来なかった。

実は、私は地球に限っては自分なりに考えてきた答えは持っていて、それを披露するのはまだ早いと思っていたから、どう答えようか迷っていた。昔からある命題で、人類がまだ知らないことは多くあり、宇宙のはじまりは?宇宙の果ては何?時間って何?みたいな話は自分の中で何度となく思考してきたり、文献なんかを読んだりしてもなお、あくまで自分なりの答えしかなく、日本の都道府県の名前だとか、虫や動物の生態、野球のルールなどと違って、すぐに知ってることを教えたくないシリーズなのである。

私は以前にも書いたかもしれないが、一切の宗教を特別に信仰してはいない。しかし、先祖のお墓はお寺にあったり、結婚や出産は神社にお世話になったり、無神論者や完全な無宗教ともまた違うと思っている。神なるものの存在は否定もしないし、かと言って特定の宗教の神のみを信仰するというわけでもないという立場である。よって、全ての宗教に対して寛容である。ただ、宗教心を煽って、信者からお金をまきあげたり、体罰のようなことをしたり、また勧誘活動が激しく人々を追い込んでしまうとか、芸能界や政界に幅をきかせてみたり、やはりそういうのは違うなと思ったり、また宗教法人と名乗れば法人税がかからないので、それを利用するためだけの宗教は自分のなかで認めていない。

 

そして、なんで急に宗教の話をしたのかと言えば、私は地球やそこにいる生物、もちろん人間も含めて、作ったのは、神であると思っているからである。実は進化論も私は信じていない。ただ、創造主というか、神が改良を進めただけであると思っている。こういう偏った考えを持っているので、今のところ、子どもこれを伝える気はないのだ。ここで言う神は特定の宗教の神ではなく、宇宙やら、地球やらを俯瞰してみている存在で特に偉くもなく、賢くもなく、清廉潔白でもなく、ただの普通の人類のような存在がいるんじゃないかと思っているだけなのである。

つまり、最初は地球というものを作ってみて、そこに簡単な微生物を作っていれてみる。それは自分でどこからか栄養をとり、分裂して増えていき、やがて死ぬという単純な一生を終える。次はもう少し複雑で、他者を捕食し、交配して子孫を残す微生物を生み出す。分裂型だと同じタイプのものしか生まれず環境の変化に同じタイミングで一気に絶滅するのに対し、交配型は様々なタイプのものが生まれるようになり、環境耐性が高まった。

そして、少しずつ海で暮らす生物、微生物から魚などへと改良し、種類を増やしていき、やがて陸上でも暮らせるような生物も作り、最初の成功は恐竜を生み出したところである。

ところが、恐竜は発展性がなかった。いつまでも変わり映えのない恐竜の世界はやがて創造主を飽きさせる。そして、一度終わらせ、また新たな生物を創造する、そしてその最後のそれが人間であった、なんて想像している。正しいのか、間違っているのか、そんなことより、こういう風に考えるとしっくりくるし、ワクワクするし、楽しいからこんなことを考える。例えば、家電の進化をみていると、どうしたって生物の進化と似ていると思わざるを得ない。家電は自分で進化したのか?といえばそうではなく、創造主が進化させてきたわけで、じゃあ生物にもそんな存在がいてもおかしくはないよな、とか。

人間は高度なコミュニケーション能力を持ち、互いに協力することが出来る他、狩りや採取だけでなく、家畜と農業も出来るようになったかと思えば、社会を形成し、より大きな集団を形成した。そして、科学技術からどんどん新しいものを作り出し、創造主を楽しませている。人間は自分で自分たちの世界を発展させることが出来た。

しかし、私が考えるのは、創造主が人間に与えたもの、それは自滅機能だと思っている。いつか自分たち同士で殺し合うのか、または環境を壊すか、何が引き金になるのかは分からないが、人間が人間を滅亡させるという結末を創造主は望んでいるのではないか?と。勿論、今すぐにというわけではなく、もう少し楽しんだらということだとは思うが、いずれリセットしたいと考えているのではないなと思う。それは人間が他の生物とは違い、人間同士で、しかも生存のため以外で殺し合うことが出来るからである。

よって、もし我々に意思があるなら、つまり創造主から独立した独自の思考に基づいた意思があるなら、戦争を起こさないことが出来るはずだなんてことも考える。戦争こそが人間の自爆装置なのだと思うし、創造主が我々人間にだけ与えたもの。だからいつの時代も殺し合いを続けてきたのかなと思っている。

 

とにかく、こんなことを考えてきたので、この他にも創造主がいて、地球を創り出しそして、色々進化させてきたと考える方が都合がいい、辻褄が合うなと思うことがいくつかあるが、息子に話すのにはあまりにも突拍子も無いし、荒唐無稽でもあるし、余程じっくり話さないとそれこそ私が何かの宗教に冒されていると思われるかもしれないし、結果、逆質問でその場を乗り切った。

いつか話すことになるのか、それとももっと大きくなったら、このブログの存在を教えて、さり気なく読んでもらうか。

 

 

異次元の少子化対策について

少子化対策とは、バラマキなのか?

私からすると、子育て支援でバラマキをすることは、子育てをしていない労働者への罰金だと思っていて、とても不公平だと思っている。私は子育てをしている身で子育て支援でもらうお金が有り難くないわけではないが、子育てをするかしないか、そもそも結婚するかしないか、以前の記事にも書いたが、それは個人の自由であることと、それ自体、国のためにやっているわけではない。

つまり、結婚すること、子どもを作り育てることは、国から褒められることでもなんでもなく、ただ自由に生きた結果である。もっと簡単に書けば、そうしたいからそうしているだけの状態なのだ。それがたまたま子どもというのは国の未来にもなるということから、多少の支援することは間違いではないが、過度にやる必要は全くない。特に、今回の都知事の突然のバラマキ宣言は子育てをしていない都民への罰金である。

直前に宗教への献金を規制する法律が成立したので、収入が減ることを懸念した政治団体兼宗教団体からの要請でバラマキをして、その宗教団体は、信者にそのお金を献金するように迫るのかな?なんてことまで考えてしまうほど、不自然な流れだ。

そもそも、私は少子化をそこまで深刻な問題だとは思っておらず、少なくなったら少なくなったなりの国家戦略を練ればいいだけで、ずっと人口が変わってない国なんてないし、増える時もあれば、減る時もある。そもそも日本は災害大国で、安全に住める地域は少ないので、今の人口だと災害の被害を受けやすい地域に住宅を建てないといけないなど、不都合なことが多かったりもする。よって、そのために外国から労働者を受け入れるなんてもってのほかで、とにかく身の丈に合った生活をすればいいだけである。

また、これも前の記事にも書いたが、引きこもりなど、働ける年齢ではあるけど、働けなくなった人々も多く、そういう人の救済はほとんどせず、その親任せになっていることが大半であるのが現状である。もし本当に、労働者を増やしたいのであれば、そこを発掘したらどうだろうか?ただ、価値観の押し付けはよくない。そういう人たちを社会復帰させることは、あくまでその人が望むなら手を差し伸べるのであって、そういう選択をしているのであれば、無理矢理やることではない。社会復帰することだけが人間の正しい姿ではない。政府にとっては人々が働いて納税してくれればハッピーなのかもしれないし、納税の義務もあるが、税金の無駄遣いやそもそも外国へ流出させているやつがいるわけだから、彼らを批判するのはおかしい。まず、本当の売国奴を捕まえてから納税の義務を果たしてないことを問題視すればいい。

少し話は逸れたが、子育てをすると決めた親はある程度、出費やそれに伴う精神的、身体的な負担は覚悟しているのだ。それを考えず子どもを産む人がいないとは言わないがもはやそういう人たちは少数派で、大多数の日本人は子育てをする覚悟を決めて子育てをしているわけで、そもそも過度な支援は必要としていない。むしろ、必要な支援はまだ足りておらず、保育園はなかなか入れないとか、保育士や幼稚園の先生の給料が労働に見合っていないとか、子どもが気軽に食べられる外食がないとか、(アメリカの不健康ファストフードやファミレス、添加物だらけ弁当など)、挙げればきりがないが、お金を配られることよりも大切なことが多々あるが、そこには触れず、ただ、お金を配る、まさに異次元の愚かさである。やはり献金用なのかと勘ぐってしまう。

家事の中で最も時間がかかるのが食事である。洗濯は一回回しても一時間弱。干して畳む作業も30分弱。掃除は家の広さにもよるが、一日2時間もかからないだろう。ゴミ捨て、保育園や幼稚園の準備、その他の家事があっても、食事には到底及ばない。食事というと、料理をする時間だけではなく、日々の買い出し、メニューの考案、洗い物、まで含めると一日4時間以上の労働を強いられる。手を抜けばもちろんもっと短く出来るが、それだと健康にいいものを望めなくなる。よって、以前にも書いた国民皆保険ではなく、国民皆給食とも言える制度があればと考えており、そんなことにお金を使ってもらえないか?と思う。これは、子育て支援だけでなく、高齢者にもいいし、特に一人暮らしの老人にとっては食事が配られるというのは本当に助かるはずであり、そういう子育て家庭だけが助かるのではなく、みんなが助かる制度があるべきなのだ。

日本政府には、特定の団体への配慮だけでなく、本当に国民のためになること、これを真面目にやってもらいたい。

 

 

 

 

防衛費について

ここに来て突然、防衛費を上げるという話になってきた。

思い返せば、安倍さんの事件からここまで一本の道筋があったかのような気がする。岸田さんは総裁選の時に、防衛費を上げるなんて言っていたっけな?これまでの選挙で、防衛費を上げるって公約に掲げて当選した人はいたかな?なんて考えてみる。

もちろん、この話が出たり消えたりしていたのは知ってるが、これをやって欲しいから自民党に投票した人がいるのかなと思っただけである。そもそも、世界的に見て、日本の防衛費(他国は、軍事費)は、戦争しない、武器を保持しないと憲法に書かれている国であることを疑ってしまうくらい高い。ドイツやイギリスとほぼ同等と言えば分かりやすいかもしれないが、戦争放棄しているのに、とにかくすごい額である。

翻って国民の目線から見ると、年金が減額される、物価が上がる、給料上がらない、電気代上がる、などなどとにかく生活は苦しくなる一方なのに、防衛費のために増税?驚きしかないのは当然のことだろう。北朝鮮がミサイルを撃ってるとか(ここ最近頻繁になってきたが、)政府はそれを理由にしたいのかもしれないが、今こそ、減税して国民の生活を楽にしてあげるのが政府の役割では?と誰もが思うんじゃないかな、ということが岸田さんには分からないということなのか。

さらに円安なら輸出企業が有利なので、さらに支援して今まで勝てなかった分野の企業を海外で勝たせるようにしたり出来ないのかなと疑問に思う。インバウンドばかり強調されてしまうが、観光って潤う場所が決まってしまうので、それだけではやっぱり日本全体の底上げにはならなくて、輸出をやる製造業が元気になると、そのサプライチェーン全体に広がるので、効果は大きい。観光で儲けるって、お土産を買わせたりするけど、それがそもそもmade in chinaだったりして、金は天下の回りものってことですかね。

 

防衛費を増やしても、アメリカのお下がり武器をたくさん買わされるだけで、日本の産業にはほとんど寄与しないので、ただただ国民の生活が苦しくなるだけである。つまり、防衛費は国民を守るためのお金のはずが、苦しめる根源になっているというのが、現状である。防衛費のための増税で命を失う人も出てくるだろう。

よって、防衛費でアメリカから買っている武器や戦闘機の代わりに、水素分野の研究や水道事業の支援(民間に売り渡さないため)、天然資源の購入、災害復旧事業などの方が国民の生活や未来にとってはるかに重要な気がする。

確かに、ロシアのウクライナ侵攻で、ロシアは平和を乱している!と声高に戦争反対とか、平和が一番とか、そんなことを言いながら武器を大量にウクライナに送っているアメリカが疲弊してきたのは分かるし、その財源を日本から持ってきたいというのもよく分かるが、アメリカの政策の失敗のつけを日本が払い続けるのはもうやめてもらいたいと思うのだ。

 

ただ、こんなことよりも、もっと嫌な事、それは以前の記事にも書いた戦争の足音が聞こえることである。

防衛費を上げて、武器や人材が整えば、それをずっとそのまま維持するのにもお金がかかるので、それなら使おう、なんか理由をつけて、みたいな話にならないか不安なのである。

戦争は何度も書くが、一部の人が莫大な利益を上げる一方で、国のためとか、未来のためとか、正義のためとか、そんな言葉に誤魔化された罪のない国民たちの命、生活、財産が全て奪われるというのが事実である。国防のために戦おう!といえばかっこいいし、拒否すれば非国民のレッテルを貼られるのも分かるが、その言葉の裏で、自分の命や生活は守り、大義名分の下で国民だけ殺されている事実に気がつけるかどうかである。そして、それが戦争である。気がついた人は邪魔者になり、排除されてしまう。だから、みんな気が付かないフリをするか、そのなかで上手く立ち回るか、それぞれみんな不幸な選択を迫られる。

私は防衛費を上げることは反対だが、それはアメリカへの資金流出とか、他の事業ができないかとか、もちろんそれもあるが、一番は何と言っても戦争に近づいていくのが嫌なのである。

戦わずして、国を守れるのか?とよく言うが、戦って国を守れるのか?日本は大東亜戦争で、日本を守れたのか?負けたからこうなったのか?勝っても結局、多くの戦死者を出し、相手国の人々も殺し、領土も文化も生活も、壊し壊されていただろう。逆に、話し合いや金銭でのやり取りはいかなる場面でもたいてい上手く話がまとまっている。戦うよりよっぽど効率的だと思う。

よく中国が領土拡大を狙ってるとか報道されるが、そんなことではなく、資源を狙っているだけだと思う。資源なら分け合えばいい。戦争で奪い合っても絶対解決しない。殺し合えば必ず殺された家族まで怨念が残り、憎しみの連鎖が続くだけなのだ。そんな憎しみを自分の子どもや孫の世代まで残していきたくはない。

我々は防衛費が上がるその次のステップを見据えなくてはならないし、マスコミはそんなことは報道しないので、自分で考えるしかない。

 

MLB MVPについて

大谷翔平選手一択だろうと思うが、どういうわけか対抗馬がいて、さらに彼のほうがMVPに近いというのが、驚きを隠せない。本当に近いのかは別にして、そういう報道が多いということである。

Most Valuable Player がMVPであり、日本語に訳せば、最も価値のある選手、がそれに選ばれる。

大谷翔平のすごいところは、言うまでもなく、規定投球回規定打席の二つをクリアしたことである。世界中の名選手が集まるメジャーリーグで、一軍に一年間いるだけでものすごいことである。日本で大活躍した選手でも、メジャーでは二軍にいるケースは珍しくない。そのくらい厳しい世界で、投手と打者、どちらも一流の成績を残したという前代未聞(ベーブ・ルースだの、100年前だの、はあるにせよ)の記録である。逆に言えば、一流の成績を残さないと、規定投球回まで投げさせてもらえないし、規定打数になるまで打席に立たせてもらえない。日本で高い成績を納めて、メジャーリーグに挑戦した選手であっても、規定投球回や規定打数にはなかなか到達しない。

つまり、二刀流と言って、強打者でありながら、たまにピッチャーをやるとか、エースピッチャーなのに代打で出てくるとか、そういうケースはあったにしても、どちらも規定以上をこなすというのは、それこそ真の二刀流であり、それは技術的には間違いなく超人的であること、しかしそれ以上に、移動などが過酷なメジャーリーグにおいては、体調管理やメンタル面なども他の選手以上に大変だったことも考慮すると、大谷翔平を除いて誰がMVPに相応しいのかと思ってしまう。

しかし、大谷翔平にとって不利な条件が二つある。一つは、対抗馬がヤンキースという名門球団かつ、今年は成績が良いことと、対する大谷翔平のエンジェルスが大きく低迷していることである。確かに、そんなエンジェルスからMVPが出るのは変だと思うのは理解出来る。しかし、MVP、つまり最も価値のある選手という観点から言うと、そんな弱いチームで勝ち星を15も積み上げたことは、打撃陣のバックアップがない中で、ということを考えるとむしろ弱小チームでの勝ち星の方が価値があると言えるはず。そもそも勝ち星というのが何点取られても、攻撃陣が逆転してくれればいいものなので、打撃陣が充実しているチームの投手の方が勝ち星をあげるのは有利である。また、打撃面においても、強打者がズラリと並ぶ中で打っている場合、相手のバッテリーは常に緊張状態で疲れるが、エンジェルスとの対戦の時には大谷とトラウトのみが厳しくマークされた中でのホームラン34本。これは、年によってはホームラン王にもなり得る数のホームランであり、また打率も2割7分という好成績。つまり、ヤンキースなど強豪チームで色々はバックアップがあるなかで達成するよりも遥かに大変な記録だったように思う。また、そもそもチームがあまり勝ててない中では、そのチームの数少ない勝利にどれだけ貢献したのかを考えてみれば、常勝軍団であれば、貢献度はこれだけやっても30%くらいかもしれないが、大谷翔平の場合には、70%を超える貢献度があるのではないかと思ってしまう。それこそ、最も価値のある選手なのだと思うのだが。

 

もう一つは、近年誰もやったことがないことである。簡単に言えば、ホームラン王というのは毎年多くの選手が目指しているし、歴代記録も毎年報道され、ホームランの数は単純明快で分かりやすい指標である。特にアメリカ人はホームランがなにより好きである。去年の大谷もゲレーロとのホームラン王争いがあり、高く評価はされ、それにピッチングが加わり、受賞した感じではあったが、今年の大谷の離れ業過ぎる偉業は誰もやったことのない、投手でも、打者でも超一流の証である規定を超えるということは正しく評価されないのだ。指標がないもの、奇抜なものを評価出来ないというのは、分からなくもない。学校の成績でも、数学とか歴史とか、そういうものであれば成績として評価出来るが、友達が多くて面倒見が良いとか、街で困っている人を助けているとか、すごいのは分かるけど、評価の基準がないものは、表彰されない。それが真の二刀流の難しさなのである。ただ、分かる人には分かるのが、単に成績がいいだけでなく、他にも優れた点がある方が人間的に優れているということであり、確かにホームランという成績では破れた大谷ではあるが、また投手としては最多勝で破れた大谷ではあるが、そのどちらもやったという目に見えないというか、評価出来ない部分が、本当はMVPの名に相応しいということが、絶対に伝わらないのだ。

ただ、一部報道で大谷翔平が日本人だから差別されているのではないか?との記事も見かけたが、私はそれはないと思っている。むしろ、多くの日本人が大谷翔平が日本人だから応援していて、日本人でなければ、ここまで報道もされなかったのではないかと思う。アメリカ、特に大リーグはそもそも外国人が多く、中南米からがメインだが、アジアからもたくさん挑戦しているし、まさに世界一のリーグという名に相応しい。よって、外国人だからと差別されることは、もちろん全くないとは言わないが、人数の比率から言っても、差別はされにくいと思っている。また、以前の記事でも書いたようにも思うが、私自身、アメリカに住んで、アジア人だからという理由で差別されたことはなく、日本人だから今回MVPに選ばれなかったのだ、というのは、当てはまらないと思っている。

まとめると、大谷翔平の今年の活躍は記録にも、そして特に記憶にも残る大偉業であったことは疑いもなく、普通に考えれば、MVPなのだが、チームが弱かったことで箔が付かない、二刀流の評価が出来ないことから、ヤンキースでしかも、評価しやすいホームラン王の選手が有望だとのこと。

また、MVPというのは、子どもに夢を与えられる選手に、という願いもある。ホームランを量産する選手や三振の山を築く投手も、盗塁をたくさんしたり、素晴らしい守備だったり、とにかく多くの優れた才能に与えられる称号ではあるが、今まで誰も挑戦してこなかった二刀流という離れ業に、海を渡ってきた若者が、知らない土地で、試行錯誤しながら挑戦し、自分の思い描く姿を必死で追いかけ、実現してしまったそのサクセスストーリーにMVPが与えられたら、それはきっと世界中の子ども達の新しい目標になっていくと考えている。

まだ発表されたわけでもないので、これからも動向を注視していきたい。

 

 

 

 

少年野球について

私の一番好きなスポーツと言えば、2位とかなり差が出るくらい野球が好きである。あまりにも色んな事が神がかり的で、奇跡のスポーツだと思っている。野球について、その魅力をまた別にまとめたいとは思っている。

しかし、そんな野球において、そして特に少年野球や高校野球については、とても残念な、不都合なことがいくつもある。

まず、何より道具が高いことが挙げられる。そんなこと言ったらバイオリンなどの楽器を習う人はもっとお金がかかるとか、いいものなんだから高くても仕方がないとか、言われそうではあるが、無駄なものが多いという気がするので書きたい。第一に、ユニホーム類である。値段にそこまで影響はしないものの、あの立派なベルトは必要なのか?と思う。とにかく固いので子どもには扱いにくいし、バックル部分も大きいので、ヘッドスライディングをよくする野球においては邪魔になるケースがあるのではないか、そしてサッカー同様、ゴムと紐でいいのではないか?と思う。靴下の二重化も確かにスライディングからの衝撃は守れるが、そこまで必要性は感じない。スパイクも必要なのは分かるが、高いのでボールを蹴るわけでもないし、走りやすい普通の靴でも十分に思える。さらに書くのであれば、そもそも野球というスポーツでプロ野球は別として、アマチュアであれば、ユニホームを揃える必要があるのか?という疑問もある。確かに揃ってる方がいいのは分かるが、サッカーのようにプレー中にどちらのチームか分からなくなることもないだろうし、余程奇抜なものでない限り、プレーを阻害しないので、服装自由で、試合時に背番号つきのビブス着用でも問題ないように思う。また、グローブとバットは本当に高くて、小学生用でも2つ揃えたら五万円以上かかってしまう。私は野球を金持ちのスポーツにしたくないので、お金の面でもっと敷居の低いスポーツになって欲しいと思っている。

次に、色などに指定があることである。例えば、うちの地区の少年野球だと、グローブは単色じゃないといけないとなっていて、小学生が好きそうなカラフルなやつとかは使用出来ない。高いグローブを買わされる割には好きなものは買えないというのは非常に不条理であり、理不尽に思える。同じようにスパイクも色の指定があり、ユニホームに合わせたチームごとの決まりの中で選ばないといけない。スポーツをやる上で、意外と楽しいのが、特にゴルフとかはそうだが、ウェア選びだったりする。好きな道具に身を包むことも楽しみの一つだが、必要性の低い制限がそれにかかることは競技人口を増やそうという動きにはマイナスになり得る。甲子園における坊主頭指定も最近は緩和されてきているが、そういうものを含め、下手な統一感は逆に見ていても窮屈感を覚えてしまう。

古い指導法がいつまでも残っているというのも、少年野球の特徴でもある。日本のプロ野球というのも封建的な部分が多く、メジャーリーグが変更したとなればそれなりに柔軟に対応するものの、改革とか改善に関しては一般企業などに比べるととても腰が重いが、少年野球や高校野球はさらに重い。例えば、少年野球で言えば、熱中症対策と世間で言われても、真夏の炎天下で一日中練習をさせたり(もちろん水分補給や氷の提供は親がする)、不要な声出しを強要したり、考えさせない野球、つまりは監督やコーチの言いなりの選手を作ったり、まぁ挙げていくときりがないのだが、少年野球というのは、かなり古い体質の温床であり、世間とはズレた常識の中にある。また、コーチや監督が真剣になるのはいいことだとは思うが、教え過ぎるというか、型にはめようとし過ぎてしまうというのも、問題であるように思う。大リーグなんかをみていると、色んな投げ方や打ち方の選手がいて、みんな超一流であるが、日本の少年野球は特に、みんな同じように投げて打つという感じで、個人の体格や性格、または好みに合わせるということはあまりないように思う。明らかに直した方がいい場合も多いことは認めるが、動きに個性があっていいようにも思う。

あとは、勝ちにこだわり続ける指導者や親が多いことも問題がある。もちろん、野球というのはスポーツであり、それには勝敗がつきものだし、試合に勝つために練習し、勝つ喜びを味あわせてあげたいという指導者や親の思いであることは当然理解出来るものの、小学生にとっての土曜日、日曜日は友達と約束してどこかの公園に行ったり、くだらないことでも話しをしてみたり、ゆっくり本を読んだり、映画を観たり、または他のスポーツをやったりと、色んなことを体験することもまたとても重要なことである。しかし、勝つ事にこだわると、どうしても練習をたくさんしないといけないという心理になり、土日祝日は必ず丸一日練習して、さらに平日もとかになると、子どもの可能性がどんどん狭まってしまう。プロ野球選手という狭き門を目指すとしても、やはり見聞を広めることは重要だし、プロ野球選手にならないのであれば、いくら野球が上手くてもそれだけでは何も出来ないので、小学生のうちからなるべく広く色んなものに触れる機会を与えてあげないといけないし、高学年になったら、何より自由な時間を与えて、それをどう使うか、自分で考えて行動することも学ばないといけないと思っている。よって、中学生や高校生になっても部活漬けとかも本当は良くないと思っている。プロの選手ならまだしも、または強化選手なら仕方ないかもしれないが、或いはよっぽど本人が大好きでそれ以外やる気がしないとかであれば話は別だが、半ば強制的に子どもの自由時間を奪うのは良くないと思っている。その時は、勝ちたいと子どもも親も必死になって頑張るが、終わってみると、何が残っていたのか?という虚無感を抱くことが多いのも事実。確かに親子関係は良くなることも多いが、それは一緒に過ごしたり、同じ目標を持ってやったりしたことが要因なので、野球でなくてもいいし、大切なことは親が子どものために、子どもと一緒に頑張ることである。

では、負け続けていいのか?と問われるが、まず練習時間と勝敗はそこまでリンクはしないと思っている。効率の良い練習と精神論ではない戦い方(戦術)があれば、少年野球なら勝てる。むしろ、長時間練習で疲れが溜まったり、また親もちゃんとした食事を与えられなかったり、選手が自分で考えて練習したりすることができなくなる方がよっぽど負け続ける要因になると考えている。もっと言うと、負けたっていいとさえ思う。人生という長い道のりを考えたときに、野球の試合で勝つという成功体験はとても意味のあるものだと思いつつも、野球が人より上手いことだけでは、例えばずっとゲームをやっている子どもと何が違うのか、ということになる。つまり、それが生きていく糧になるかということで、野球に全てを捧げても、そのまま人生を送れるとは限らないというわけだ。もちろん、全てを適当にやって、中途半端に多趣味である必要はないが、触れてみて、試してみて、人生の楽しみ方を試行錯誤してみることもやはり必要なのだと思うし、昔、脳科学者の話で、同じ事や慣れたことをやり続けると脳は退化すると聞いたことがある。逆に新しいことや慣れないことをやることで脳は活性化するらしいので、小さいうちは色々経験することが大事なのではないかと思っている。

とはいえ、やはり野球をやる息子を観たり、団体のなかで成長する姿は大事なことだと思うので、もう少し運営側が配慮してくれるようになるといいなと願っている。