冬至について

今日は冬至である。

日本だと、冬至はあまり意識されないというか、この日を過ぎれば少しずつまた日が長くなり春に近づく、なんて少しワクワクする人もいるかもしれない。もちろん、かぼちゃだとか、ゆすだとか、ちゃんとやる人も多いとは思うが。

ヨーロッパでは冬至は少し違う意味を持っている。そもそも、ヨーロッパでは秋分の日を過ぎると、どんどん日が短くなり、冬のヨーロッパの日照時間は場所にもよるが、東京の4分の1と言われるくらい短い。日の短さもあるが、曇っていることも多いことも影響しているかもしれない。さらに、とても寒いので、外に出る時も厚着をしているため、日光を浴びられない。もちろん、それは農作物にも影響して、食料も少なくなってくる。よって、ヨーロッパの冬は、日本の冬よりも、冬季うつ病やその他の健康被害も多いという非常に苦しく、厳しい季節なのだ。そのなかでも冬至は一年で最も暗い日、言ってみれば暗黒の日であり、心身ともに一番辛い日と言っても過言ではない。もちろん現代は、暖房設備が整い、ビタミン剤や薬も充実し、食料が枯渇することもないだろうから、中世以前のヨーロッパの状況とは違うだろうが、それでもやはり冬は精神的に塞ぎがちになる。

だから、そんな冬至付近に救世主の誕生日であるという宗教があって、みんなでその日にローソク(光)を灯し、歌を歌い、食事を食べてお祝いすれば、その宗教に心を預けたくなるのもよく分かる。一番苦しい時に、温かい光と歌、そして食事が与えられるというのは何よりの救いだ。

クリスマスは、そんなヨーロッパから生まれた文化で冬至の付近にある。街はキレイなイルミネーションで溢れ、一年の中でも、楽しみな行事の一つである。ただ、日本ではその後の新年の方が休みも長く、はしゃぐわけでもないが、より盛大なお祝いという感じだが、ヨーロッパではやはり、冬至がとても大きなポイントとなっている。

ここで思うのは、やはり宗教というのは、その地理や気候など、自然に大きく関わっているなぁということだ。東南アジアでもキリスト教が浸透していたり、イスラム教徒が多かったりするが、それは少し不自然というか、良いとか悪いという話ではないが、最終的には馴染まないような気もする。それか、宗教自体が土地土地に合わせて少し譲歩していくか。

何故なら、宗教というのは人の弱さや不安などを救うことが出来、さらにそれによってある程度、人の行動を抑制したり、または鼓舞したり、そんな効果のあるものだが、クリスマスが冬至にあることの意味、有り難さが東南アジアではあまり理解されないというか実感がないだろう。砂漠で生まれたイスラム教が、高温多湿で豊かな自然のある東南アジアでは、本来、必要のない教えがあったりもするだろう。

冬至の日に、色々と考えてみると、まだまだ世界は変わっていくような気がしてならない。インターネットの世界がどんどん広がっていくと、ローカル化、つまりみんなが他の文化と自分の文化を比べるようになり、自分の本来の文化を大切にしようという機運がきっと高まり、見直すフェーズに入るように思う。それが、ローカル化である。

今のところ、そんな動きは全く見当たらないので、10年とか20年というスケールではないと思うが、少しずつ変わっていくように思う。

日本では変わらず、かぼちゃとゆず。これは宗教ではなく、ご先祖様の知恵であり、自然環境と合致した風習なので、変わらずに残っていくものだと思う。日本人が続く限り。