ウクライナ問題について part3

いよいよ、日本の敗戦が濃厚になってきた。

えっ?日本は戦争に参加してないよね?と思うかもしれないが、ロシアから見れば、NATO側と一緒になって経済制裁をしている時点で戦争に加担しているわけで、今後ロシアから武力侵攻される可能性まで出てきた。例えそこまでの話にならなくても、すでに貿易などでは大きなダメージを受け始めている。

ここで考えたいのは、経済制裁をすればするほどプーチン氏は強硬になる、つまり戦火は広がる、犠牲者は増えるということである。ロシアやプーチン氏を打倒することが日本の目標ではないはずで、あくまでウクライナで犠牲となっている人々にどうやって平和を与えるか、つまりはどうやって戦争を早く終わらせるか、考えるべきなのだ。これはNATOとか、その他のヨーロッパ諸国と日本が全く異なる点である。確かに、日本にとってもロシアは脅威ではあるという面は持ちつつも、NATOが考えているものとは全然違う。むしろ日本にとってロシアは、文化的そして経済的な友好国であり、NATOのようにウクライナに武器を渡して、打倒ロシアの代理戦争を仕掛けていくような流れに日本が加担するのはおかしいと思う。何故なら、NATOとしては、戦争を終わらせたいというより、この流れの中でロシアを苦しめたい、あわよくば倒したいと思っているわけで、日本の思想とは相容れない。今は、反戦=反ロシアとしての報道が多いし、悲しいのは私の好きなロシア人ユーチューバー(安涼奈さん、ピロシキーズ)も、このような視点で話していることだが、反戦=反ロシアまたは、反プーチンというのはNATO側が作り上げた正義の構図で、さらに言えば、彼らのスタンスは、ロシア対ウクライナの戦争にNATOが悪党ロシアに侵略されるウクライナを助けるといった勧善懲悪ストーリーを作っているが、前の記事でも書いたように、そもそもNATO側の東方への進出が問題、つまりは火種になっていたわけで、NATOは間違いなくこの戦争の当事者なのだ。よって、日本はこの問題を冷静に外から見えるわけで、誰がどう動けばこの戦争が防げたのか、また早く終わらせることが出来るのか、考えられるポジションにいるのではないかと思う。ここで、NATO側と一緒にロシアへの経済制裁をするというのは、反戦ではなく、ロシアへの宣戦布告であり、NATO側の一員になることになる。この部分が日本の報道では曖昧で、日本政府として、この戦争を終わらせるためにロシアへ経済制裁をするという声明だったが、経済制裁では終わるどころか戦争は激しくなるし、ロシアへ、というのも違う気がするわけだ。むしろ、NATOに対して、もっと警告すべきだったのではないかと思う。

まず、経済制裁の多くは、トランプゲームの七並べと同じようなもので、制裁する側も痛みを伴う。平時であればお互いにどんどんカードを並べていき、パスをしないままスムーズにお互い出し切れるようにするものが、経済制裁というのを七並べで例えるなら、相手が困りそうなカードを止めたり、わざとパスをして膠着させたりするようなもので、痛みを伴う。その痛みの大きさで勝負するわけだ。経済制裁をする側が一方的に有利なようにも見えるが、実はそうではない。何故なら、もし有利なら平時からそうしてるはずなのだ。つまり、経済制裁を発動し、ロシアから魚介類や天然資源の輸入をしません、という場合、確かにロシアも売れなくて苦しいかもしれないが、買えない日本、つまり日本国民はもっと辛いのではないだろうか?また、ロシアの経済規模からヨーロッパとの取引がなくなるのは痛手かもしれないが、日本とのやり取りはそれと比べれば微々たるものであり、例え貿易を続けたにしてもロシアの軍事費用の足しにはそんなにはならないはずである。よって、日本による経済制裁は日本人を困らせ、ロシアに対してダメージを与えるというより、ただロシアに嫌われただけ、という印象だ。でも、NATO側には媚を売れたと思うかもしれないが、彼らはこの戦争の当事者であり、経済制裁のみならず武器を提供してウクライナに代理戦争させているわけだから、日本は単なる属国としか思っておらず、武器渡せないなら、経済制裁を一緒にやらせて、あとは金を取ろうとしか思ってないので、経済制裁をやらなければ大きな仕打ちが待っているだろうが、やったからと言って彼らから評価されるわけもなく、当たり前として受け止められる。アメリカとヨーロッパは仲間であるが、日本は彼らの仲間ではない。日本の報道ではそう言ってるかもしれないがNATOだの、アメリカだの、EUだの、とにかくそういう欧米諸国は日本のことを仲間だなんて全く思ってない。もちろん、民間人レベルでは日本人とか、日本文化とかが好きだという人が多く、友好的ではあるが、政治は全く別だ。

そして、肝心なのはここから。

まず、アメリカという国は、国土も広く、農作物や天然資源が豊富な国である。これはロシアも同じで、こういう国は経済制裁する側になっても、される側になっても比較的強い。しかし、日本は食料も、天然資源も乏しく、輸入に頼っている部分が大きい。よって、日本は平和的に貿易を続ける方が良いというレベルではなく、続けないと立ち行かなくなるというレベルなのだ。

つまり、全くアメリカとは置かれた状況が違うので、アメリカの言いなりになって経済制裁の輪に入ったものの、払う代償が違い過ぎる。これが日本の敗戦ということの理由である。ヨーロッパの国々も、アメリカやロシア程豊かではないが、仲間からの支援が受けられる。日本はこの戦争が終わってもロシアとの関係は改善されないだろうし、当事者である欧米諸国に協力して経済制裁をしたのに、多分助けてもらったり、何か特別な御礼をされることもなく、今まで通り、属国的な扱いを受けるだけで、戦闘機を買う時だけ頼りにされる存在なのだ。反戦というイデオロギーのために、協力すべきだというが、先程も書いたように、それは余計に戦火を広げているので、それとも違う。

しかし、世界の反戦ムードに水を差すようなことはすべきではない、日本も戦争を始めたロシアに抗議すべきだ、という話もよく聞くようになった。まず、先程も書いたように、今の世界のムーブメントは、反戦ではなく、反ロシア反プーチンであり、本来日本が訴えてきた反戦とは違う。しかも、一番の問題は何かと言えば、世界と書いた時に我々は本当に世界を見てなくて、アメリカやヨーロッパの言うことが、世界の意見だとずっと思い込んでいたことだ。今回だって、中国+インドで世界の1/3近くの人口を占めるが、どちらともロシアを批判していない。つまり、アメリカやヨーロッパよりも多くの人を抱える国がロシアを批判していないのなら、世界が、と書くのはそもそも間違っている。要するに、ロシアに経済制裁をしないことが、世界の標準に合っていないということはなく、あくまでアメリカやヨーロッパと違う立場である、ということだけなのだ。むしろ、世界はNATOの動きを懐疑的に見ていて、日本の報道では流れないが、中東にしたって、東南アジアにしたって、その歴史から、欧米のやること、言うことを信じている人の方が少ないのではないか?

だから、ますます日本がロシアに経済制裁したり、NATOに加担してロシアを批判したりすることが滑稽に思えてしまうのだ。これでまた北方領土の話し合いもやりにくくなり、胸を痛めている人も多いだろうと思う。

では、日本は何をすべきか。

私が思うには、まず終戦後の世界を想像することが大事だ。日本国民を守るためには、ウクライナとも、ロシアとも、そしてNATO側とも正常な関係を築けることである。どちら側かにつかないといけないなんてことはないはずである。もちろん、どちらかが明らかに日本にとって不利益、または敵であるなら別だが、今回、冷静に見ればどの陣営も日本にとって脅威でもなければ、正義も悪もない。

だから、経済制裁をやめ、そこで得たお金をウクライナの復興支援に使いたい。キエフに日本館(江戸城のような外観)のようなものを作って、食料や医療、衣服などあらゆるものを無料で提供する施設を作ってまずは市民を助ける。今考えているのは、一階には食料の配布施設、二階に医療関連、三階には日用品や衣服、四階は子ども用の施設。終戦後一年くらいは続けて、落ち着いてきたところで、ウクライナ政府にその建物を無料譲渡し、ウクライナの人々が使いやすいように使ってもらう。

その他、鉄道やら発電所やら水道などインフラの整備も無料とは言わないまでも、ウクライナの負担にならないような形で作っていく。それこそ、ロシアとの貿易で稼いだお金の一部を使って支援すればいい。

意味のない経済制裁で失うお金を考えれば、日本国民の生活を保ったまま支援できることを考えるべきなのである。

日本がこの戦争で経済制裁や今後予想される"金出せ圧力"で疲弊し、実質的な敗戦国にならないよう、日本は独自で考え行動し、真の日本国民のための、または世界市民(欧米市民ではなく)のための、日本政府であって欲しい。

 

 

 

子どもの習い事について

子どもを持つ親にとって、悩みのタネの一つに習い事があると思う。あんまり多くの国の事情は分からないが、日本は習い事大国であり、日本程習い事の幅が広い国はないように思う。学歴社会が強い国なら学習塾のようなものばかりあったり、あとはスポーツ系と音楽だけというのが世界の標準かもしれないが、日本には特有のそろばんや習字があったり、美術関係で絵画や工作、ダンスや演劇も盛んだし、最近では、プログラミングやロボットなども増えてきている。しかし、時間とお金には限界があるので、あれもこれもというわけにはいかない。

まず、習い事を何のためにするのかを明確にする必要がある。私が考える幼稚園や小学校までの習い事で大切なことは、健康で強い身体を作ることと、社会性を身に付けること、そして自己表現のツールを得ること、そして成功体験である。

これは大人の習い事とは考え方が違う。大人の習い事は、必ず習っているものそのものが上達し使えるようになることのみが重要だが、子どもの習い事は、そのものが上達していくことより、それを通じて基礎的な能力向上を狙う必要があると思っている。

ではまず、健康で強い身体についてであるが、風邪をひきにくいとか、体力があるとか、そういう人は職場でも強い。仕事が出来るとか出来ないというのは、よほど差があれば比べられるが、多くの場合はどんぐりの背比べとなる。ただ、毎日健康でとにかく休まず働き続けてくれる人は無事是名馬ではないが、頼りになる社員である。また、社会人の前には高校や大学受験があるが、それらの受験においても、やはり体力勝負なところがある。しかし、受験シーズンになってから体力増強を始めてもすで遅く、幼稚園小学校時代から始めておくのが良いと考える。また、身体と脳の関係からして、身体を動かすことはつまり脳を動かすことでもあり、机上の勉強で脳を動かすのは学校の授業で十分であるが、身体を動かして脳を活性化させるのは習い事にお任せしてもいい。

次に社会性を身に付けるということだが、子どものうちに身につけたいのは、リーダーシップとか、高いコミュニケーション能力とか、そういうことではなく、単純に仲間とともに、苦楽をともにする経験である。それは、自分一人でやるわけではなく、チームとしてみんなで同じ気持ちを共有するという経験である。これは習い事でなくても、小学校の運動会などでも体験出来ることではあるが、そういう体験が多ければ多い方がいいので、団体系の習い事、スポーツではなくても、音楽だったり、アートや演劇だったり、何でもいい。何故この経験が必要なのかというと、社会に出ればどんな仕事でも誰かと仲間になって進めていく。一人で会社作ったとしても、社員との関係もあるし、取引先との関係もあり、とにかく人と繋がっていくしか仕事は出来ない。そんな人との繋がりの基礎は、仲間の作り方、仲間の大切さなどが感覚的に理解することなのである。その先には、リーダーシップとか、高いコミュニケーション能力とか、もう少し高度なものが求められていくが、それをやるにしても、まず仲間というか、チームというか、一緒の目標を持ち、一緒に力を合わせ、気持ちを共有する経験がないと、組織を作ったり、組織の運営をしたりすることが出来ない、または苦手になってしまい、イコール"仕事が出来ない"になってしまう。受験と仕事の一番の乖離はここで、受験という自分との戦いでいくらいい大学に入れても、仕事で上手くいかない人の多くは、仲間というものを上手く作れないケースが多い。

次に、自己表現のツールについてであるが、これは少し分かりにくいかもしれない。よく赤ちゃんが泣くのは、自分の意思、気持ちを伝えたい、または相手に伝わらないジレンマのためと言われるが、言葉を話せるようになってもこの悩みは尽きない。むしろ、思春期になると、突然、感情の種類が一気に増える。喜怒哀楽というのは小学生でも理解出来るが、嬉しいんだけど恥ずかしいとか、楽しいんだけど悲しいとか、怒ってしまうのに理由がないとか、色で例えるなら原色だけの感情から、色んな色が入り混じる混色な感情になる。すると、せっかく覚えた言葉もその感情を表現するにはあまりに頼りなかったりもする。そんな時に、スポーツだったり、芸術だったり、自分が打ち込めるものがあり、それを通じて気持ちや感情を出していけるようになると、赤ちゃん時代のような癇癪は起こしにくくなる。

最後に習い事で得たいものとして、成功体験がある。赤ちゃんのうちは、ハイハイできた、立てた、トイレ行けた、服着られた、など成功体験の連続であるものの、小学生に近づくにつれ、その成功体験アワードも一服してくる。そんな時に、新しいことを始めて、少しずつ出来るようになる体験をさせてあげるといいと思っている。成功体験の大切だと思うのは、成功体験の量または質によって、子どもが将来、何かに挑戦するモチベーションに大きな違いが出ると考えているためである。子どもにとって、挑戦→失敗→工夫や努力→成功、そしてまた挑戦、というサイクルをどんどん回すことで新しいことへの興味や自信が湧く。だから、習い事もある程度出来るようになったものをずっと続けるだけでなく、ある程度のところにきたらまた別の習い事に変えていくのも有りだと思っている。それこそ、社会人も今は、一つの会社にずっといると、人として、サラリーマンとして成長しないので、転職してスキルを上げたいという人が増えている。習い事も一緒で、その道を極めるという人は別として、やはり習い始めはものすごくたくさんの新しいことが多く成長するが、だんだん慣れてくると、新しいことは減っていき、難易度は上がってくるものの、成長曲線は落ち着いてくる。よって、長く続ける習い事の他に例えば一年ごとや半年ごとに一回、変える枠を作っておいてもいいかもしれない。子どもの時間は短いので、色んな体験をその期間にさせてあげたい。

少し欲張りかもしれないが、私はこんなことを期待して子どもに習い事をさせようと思っている。しかし、お気づきかもしれないが、私の書いた項目は、実は放課後にみんなと楽しく遊んでいれば、達成出来るものばかりである。特に、強い身体と社会性は、友達との遊びの中に山のようにある。だから、習い事漬けにするのではなく、放課後に子ども同士で遊んでもらいたいが、今は治安も昔より悪かったり、周りの友達が忙しかったりで、意外とその機会を与えるのが難しくなり、泣く泣く習い事、という感じになってしまってはいる。

また、こう考えていくと、学習塾のような習い事はあまり惹かれない。ずっと座らされているので身体は鍛えられないし、社会性も身につかないし、自己表現にもならなければ、成功体験としても、勉強は新しい事でもないので、成績が上がるくらいのものしかない。このような詰め込み教育はまだ早い。むしろ、詰め込める箱を大きくしてあげることが大事なのだ。

長くなってしまったので、次回、具体的な習い事について書いてみたい。

 

映画とんびについて

まず始めに言わないといけないことが、この映画について、何も知らないということ。まだ公開もされていないし、予告編を観たわけでもない。

では、なんで記事にするのか。

それは、この映画のポスターを街で見かけて、阿部寛が息子を乗せて自転車をこいでいる姿を見て、このお父さんは息子のこと大好きなんだろうなぁ、と思っていたら、涙が突然出てきた、ということがあったから。

映画の内容は何も知らないので、そもそも父と子ではないかもしれないし、仲違いする話かもしれないし、恋愛映画かもしれないし、ミステリーかもしれないのだ。ただ、原作が重松清さんなので、父と子の感動作の可能性は高い。私は重松清さんの作品は何冊か読んでいて、流星ワゴンなんかは泣きながら読んだのを覚えている。しかし、あのときは息子の立場で読んでいた。親思う心にまさる親心ではないが、父の立場で、父と子の話を観るとどんなものでも泣けてくる。

そんな父の気持ちを、他のお父さんもきっと持ってるんだろうなと思うと、全てのお父さんがなんか愛おしく感じられるようになる。きっとこのお父さんも、自分の子どもが大好きで、目に入れても痛くないなんて思いながら暮らしてるのかなとか、そんなことを思うと、例え知らないお父さんであっても、親近感を覚える。

お父さんというのは、究極的には、自分がお父さんであると、思い込まされているだけとも言える。もちろん、DNA鑑定でもやれば別だが、トツキトオカと言われ、10ヶ月以上の妊娠期間を経て、最後お腹を痛めて産む母とは全然違う。確実に言えることは、自分の愛した女性が産んだ子どもであるということだけで、お父さんとは言われているものの、自分の子どもかどうかはっきりとは分からない、信じるしかないというのがお父さんである。

だから、乳幼児期にお父さんが出来ることというのは限られているのは理解できる。母のお腹にはずっといたが、父とは産まれてから初めて対面するわけで、歴史が違うし、子どもにとって母の存在はとてつもなく大きいのは理解出来る。

しかし、もう少し成長し、少年の域に入ってくれば潮目は変わる。息子にとって、最初のヒーローは父親である、なんてことを言う人もいるくらい、だんだんお父さんの格付けも上がってくる。もちろん、母を越えようなんて大逸れた考えはなくても、父として出来ることは増えてくるし、子どもを愛する気持ちは変わらないと思う。

そんななか、本当に腹立たしいニュースは流れてくる。それは、子どもの虐待だ。色んなパターンがあるが、男側が妻や恋人の連れ子を虐待してしまうケースが多いように思う。

理由を聞いてみれば、自分の言うことを聞かないとか、懐かないとか、そんなことばかりだが、言葉を選ばず書くなら、ふざけんな!という話である。

そもそも、先程書いたように、どんな父親も、100%の確信を持って自分の子どもだなんて言えないなかで子育てをしている。自分の子どもだと信じる、またはそう思って子育てをするのが父親であると思う。自分の言うことを聞かないとか、懐かないとか、実は当たり前で、その中でいかに、子どものヒーローになれるのか、それが大事なのだ。ここが母とは決定的に違う部分である。

だから、どんな形で親子になったとしても、目の前にいる子どもは間違いなく、自分の愛した女性の産んだ子どもであり、それが大切で、自分がその女性を通じてその子どもも同じように愛していけば、虐待なんて想像すら出来ないはず、まさに目に入れても痛くない存在になるはずなのだ。

男というのは基本的には怠惰な一面を持つ。女性は何も目標がなくても、何かしてないと落ち着かないという人が多かったりもするが、男は何もしなくていいなら何もしないというタイプが多いようにも思う。だから、男は女性より力持ちだったり、社会性を求められたり、そして平均寿命が短かったりするんだろうなと、誰がこう仕組んだのかは分からないがよく出来ている。つまり、仕事などに従事することと、それが終われば死を迎えるということなのだ。この怠惰な一面を鼓舞して勤勉さに変えるのは家族の存在が大きい。家族というのは、要するに女性であり、そしてその女性から産まれる子どもたちである。

以前書いたさだまさしさんについてでも少し触れたが、彼の歌詞の一部を紹介したい。

 

そして今日も君たちの笑顔守るために、仕事という名の戦場へ行く。

右に定期券、左に生ゴミ

人は私を哀れだと言うけれど、俺には俺の幸せがある。

君たちの幸せのためなら、死んでもいいと誓ったんだ。

それだけは疑ってくれるな、心は本当なんだよ。

世の中思い通りに生きられないけれど、下手くそでも一生懸命、俺は生きている。

 

今回のテーマであるとんびという映画のポスターからは、阿部寛のなんとも言えない表情のなかにある家族への、息子への想いが伝わり、瞬時にこんなことを考え、泣けてきた。

 

そして、今、ウクライナで戦うロシア兵も、ウクライナ兵も、きっと誰かのお父さんだ。そして、もちろん誰かの息子だ。

そんな人たちが国のためだとか、なんのためだとか、美辞麗句のスローガンのために、自分のお父さんを、自分の息子を、悲しませないで欲しい。

 

 

 

 

 

なりたい職業について

先日、子どものなりたい職業のランキングが発表され、中高生男女の一位が、なんとサラリーマン(会社員)だった。

https://www.dai-ichi-life.co.jp/company/news/pdf/2021_072.pdf

 

間違いなく、日本を支えてきたのは政治でもなく、軍隊でもなく、企業だったと思うので、サラリーマンとしてこの結果は非常に嬉しい。ただ、サラリーマンの定義は広過ぎるというのと、業種など色々あるので、例えば、野球選手とかサッカー選手をスポーツ選手とまとめたり、または公務員に教員とか保育士も入れたりしたら、どうなるのかは分からないが、とりあえず、嬉々として受け入れたい。

しかし、こんな結果は今まであまり見たことがないのでどうしてなのか気になって調べてみると、在宅ワークが増えて、子どもの前でサラリーマンのお父さんが働く姿を見せられているから、というのが一番大きな理由なようだ。

確かにこれまでのサラリーマンは、モグラのような生活(朝、日の出前に家を出て、地下鉄に乗って、オフィスに入り、日が落ちてから帰路に着く)をしていたので、家族は疲れて帰ってくるお父さんしか見れない、または平日は顔すら見れないということが多かったようにも思う。さらに、休日はと言えば、疲れてゴロゴロしていたり、全然カッコイイお父さんではなかった。また、サラリーマンという言葉も、どこか淋しげな、地味でマイナスイメージがあったようにも思えた。しかし、今は在宅ワークになり、誰よりも長く家にいるのがお父さんという家庭も少なくないことで、印象はだいぶ変わったのかもしれない。

家にいれば、必然的に働くお父さんの姿が子どもにも見えるようになり、また子どもとの会話が増えたり、休日も通勤していない分、体力もあり、子どもと一緒に遊べる機会も増え、家族の絆が深まることで、お父さんの仕事に対して、より親しみを感じるようになったのではないかと推測する。

自分は父と同じサラリーマンの道を選んだ理由は、決して父の仕事している姿を見ていたからではなく、日本の企業で、日本のために働きたいという想いがあったことは否定出来ないが、それ以外に、自分への周りの印象へのアンチテーゼもあった。

遡ること、高校時代。先生たちからは、君は日本の大学には向いてないから海外の大学に行った方がいいと、半ば見捨てられたように言われていた。その時も、俺だって日本の大学へ行けるんだと思い、受験を頑張った。浪人はしたが、なんとか大学に行けて卒業も出来た。

しかし、大学で就職活動をしたときに、就職課や研究室の先生からも、君は就職は難しいと言われた。特に就職課からはもうここに相談に来なくていいとまで言われたこともあって、ますますサラリーマンを目指すことが目標になってしまった。

確かに、私の性格上、サラリーマンという働き方は向いていないと分かっていたし、出来ることなら芸術とか、エンターテインメントとか、そういうことをやれればとも思ってはいたが、サラリーマンも出来るということを示したかったという気持ちが強かったのを思い出す。

私の就職活動した時期はたまたま団塊の世代の大量退職と重なり売り手市場で、私もその波に乗ることができ、なんとか就職は出来た。しかし、面接とかでは立ち方、座り方、相槌の打ち方、挨拶や仕草、全部間違っていると言われたり、まぁ色々とあったが、とりあえず採用してもらえた。

そこからもう10年以上経って、サラリーマンというものを選んだことへの後悔は少ないし、なりたい職業だったかと聞かれれば正直にyesとは言えないものの、仕事は暇つぶしでも書いたが、会社員としてでないと経験出来ないこともたくさんあったので、良かったかなと思う。世間的に決して華やかとは言えない仕事だし、しがないサラリーマンなんて思われるかもしれないが、これまで健康で、家族も出来て、日々楽しく生活出来ているのも仕事があってこそだとは思うので、感謝もしている。

ただ、これからの若い世代に対しては、サラリーマンを目指して日本の製造業だったり、産業全体を盛り上げようという強い意志があれば別だが、とりあえず、親や先生の言うことを聞いて、高校へ行き、大学へ行き、就活をする時になって初めて仕事や企業選びをして、その結果としてサラリーマン、という生き方はしないほうがいいように思う。本当にやりたいことやどのように自分が活躍出来るのか、そういうことをじっくり考えた上で仕事を選ぶ必要があるように思う。

何故なら、昔のように今は終身雇用ではないし、常に世間も社会も新しいものになっていくので、我慢していれば働き続けていけるということではなくなる。むしろ、働きながら自分もどんどん成長し、その成長をまた違うところで活かすようなバイタリティが必要で、それにはやはり最初にこれが自分の本職だというような思い込みが必要だったりもする。親や先生の敷いたレールの先にあるサラリーマンでは途中で疲れてしまう。そして、これからの時代は仕事の形態も大きく変わると思われる。今までは仕事だと思われていたものが無意味なものになったり、逆に遊びだと思われていたものが仕事になったり、つまりサラリーマンという稼ぎ方自体がなくなる、または非常に珍しいものになり、自分個人として何か考えて動かないといけない時代になるかもしれないし、逆にそれは、自分というものの可能性を試せる時代になるかもしれないので、それに対応する生き方をしていく必要があるかもしれない。

よって、今の子どもに昔のような詰め込み教育をしていると、日本の高校や大学ではいい成績をおさめられるかもしれないが、世界の激しい潮流の中で戦うには力不足である。

必要な能力は、求められているものを与えるという問題解決能力である。それが仕事の基本であり、サラリーマンだとついつい忘れがちだが、仕事とは商売であり、商売というのら相手の願いを叶えることなので、どうやったら相手が喜ぶのか、そしてそれを達成するためにはどうしたらいいのか、そういうことを考えて行動することが必要になる。

よって、幼少期に何が大事かと言えば、誰にも指示を受けず、友達と遊ぶことだと思う。よく言われることだが、遊びの中に生活や仕事のエッセンスがたくさん詰まっている。いくら計算ドリルや漢字ドリルがたくさん出来ても、その能力は身につかない。遊びの中で、他人の気持ちを読めるようになったり、色んな困難を乗り越えたり、新しい遊びを考えたり、本当に生きるヒントが多いのである。

 

サラリーマンから随分話が逸れてしまったが、まとめると、私のような感じでサラリーマンになった身でも、やはりサラリーマンになりたいと思ってくれる子どもが多いことは嬉しい。しかし、サラリーマンになるというのが、惰性的であった場合、これからの時代は大変なので、強い意志を持ってサラリーマンの世界に飛び込むか、または時代の流れを読み、自分資本で活躍する道を選ぶか、それはしっかり考えた方が良くて、そういう考え方が出来るようになるためには、まず幼少期はたくさんの友達と遊ぶことが肝要だと思うわけである。

 

 

トゥイッターについて

す最近、知ったことで、かの有名なひろゆきさんがtwitterツイッターではなく、トゥイッターと発音するとのことで、それ自体は通じればいいとは思うものの、その後の彼の説明には一言書いておきたいなぁと思ったので、記事にしてみた。

確かに、twitterというのは英語なので、ツイッターより、トゥイッターの方が実際の発音に近いので、彼のスタンスは間違ってはないとは思うが、日本人の多くはツイッターと発音していて、もし彼のチャンネルがアメリカ人向け、またはトゥイッターと発音する言語向けなら理解出来るが、完全に日本人を対象にしたチャンネルなら、ツイッターでいいのでは?という気がする。ただ、これだけならわざわざ記事にすることもなく、好き嫌いだけの話かな?とも思うが、その後の説明に少し違和感があった。

彼の説明はこうだった。

トゥイッターというのは、トゥイッター社のサービスの名前であり、固有名詞。習近平も、シューキンペーと呼ぶのは日本だけで、外国では、シージンピンと呼ぶというのだ。

 

しかし、これはちょっと反論がある。

中国語と日本語は、同じように漢字を使う。これはヨーロッパ言語でアルファベットを使うのと同じで、全く同じものではないにせよ、お互いになんとなく分かるというのが文字を共有している者同士の特権である。同じ文字を使う文化圏だと、文字を見て、自分たちの読み方で読むというのは、例え固有名詞でもその国なりの読み方をするというのは別に珍しいことでもなく、むしろ普通だったりもする。同じマイケル(Michael)も、場所によって、ミカエルだったり、ミヒャエルだったりするわけで、南アフリカの都市ヨハネスブルグも、ドイツ語では、Jがヤ行の発音になるので、ヨハネスブルグであるが、英語になると、ジョハネスとなり、ブルグの部分もドイツ語であればブルグであるが、英語ならバーグである。日本語は、南アフリカの共用語の一つアフリカンス(ドイツ語とオランダ語から出来た言葉)の発音からヨハネスブルグと表記するが、英語圏ならジョハネスバーグ(略してジョーバーと呼ぶ人もいる)である。よって、ひろゆきさんの固有名詞は統一すべきというのは、案外多くない。また、福原愛さんは中国でとても人気があるが、フクハラアイとは呼ばれずに、フーユアンアイと呼ばれているが、本人がどう思っているかは別にして、中国ではそれのほうが通りやすいというのは間違いない。シージンピンについても、シーチンピンと書かれたりもして、結局、中国語の難解な発音を日本語カタカナ表記に限界があり、もし漢字を使ってない言語なら仕方ないが、漢字から読みやすく読んで浸透しているならそちらのほうが良いとは思う。

そして、言葉とは相手に誤解なく、伝わることが大前提であり、聞く人の立場に立ち、分かりやすい言葉選びをする必要がある。だから、日本では、シューキンペーとメディアも表現するのはきっとみんなが分かりやすいから。日本語にない漢字だったり、難解な漢字の場合には、発音の方で表現することもあり、分りやすさ、伝わりやすさが慣習なども含めて考慮し、決めているのだと思う。

そんなことを考えながら、トゥイッターについてもう一回考えてみると、日本人からすると、トゥという発音がそもそもあまり日本語にない音であることから、聞きにくいし、ツイッターとみんなが言っているので、いきなりトゥイッターと言われてもピンと来ないので、やはり聞く人の立場を考えると、ツイッターと言えばいいのではないかとも思う。

そもそも、日本だって、英語になればジャパン、ロシア語になればイポーニヤ、ポルトガル語ハポン、と固有名詞でも変わるというのは一般的である。こうなると、例えば、マクドナルドとか、マックやマクドと言わないのか?とか、トランプ前大統領は、チュランプみたいに言うのか?とか、でも彼はトランプはトランプと日本人のように発音してたから、やっぱり、ツイッターでいいのかなと思うのである。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c7511878a34805921686071c68eddff6504cd831

ちょうど今日、こんなニュースが出た。変更しない理由は、必ずしも国民に浸透していないとのこと。やっぱり、国も伝わることの方が重要だと考えているんだということで、ますます、日本人にトゥイッターは浸透してないので、日本人向けの配信なら、ツイッターにしてもらいたい。

 

 

3.11について

また今年もこの日を迎えた。我々日本人にとって、決して忘れる事の出来ない日となった。幸い私は関東だったので、東北の方々に比べたら、被害としては極めて微小ではあったが、それでも仕事や生活がこの日を境に、ガラリと変わったのを覚えている。

色んな方の話をこれまで聞いてきた。壮絶な経験をした人もいれば、明るく乗り切った人もいたり、場所だったり、状況だったり、その人の性格だったりで、この日の持つ意味が人それぞれ違っていて、とにかく分かったことは、3.11の話はみんな色々なエピソードを持っていて、自分なりの3.11があるということ。

よって、自分はどんな3.11だったか、紹介してみたいと思う。

この日は朝から大慌てであった。というのも、この日までに客先に出さないといけないレポートがあり、遅れたら支払いしないとまで言われていたものだった。本来なら一週間前に終わっていないといけないものが色々あって遅れていて、客先もかなり怒っていた。

入社ニ年目で右も左も分からない状態だったが、先輩たちが焦っているのも分かっていたし、自分も必死に資料をまとめていた。

そして金曜日だったこともあり、郵送では間に合わないというので、書類をもって千葉県にいる客先まで私が届けることになった。

会社を出て、電車に乗り、錦糸町駅を超えたあたりの橋の上で、急に電車が止まり、車内は騒然となった。

地震があったらしい、と話し出す乗客。しばらくして、携帯電話でテレビを観れる人が何人かいて、その人のところにみんなが集まり、ニュース速報を観て驚いた。その後2時間か3時間か、ずっと車内に閉じ込められたままで、疲れて果てた。中にはドアを壊して開けようとしたり、窓から降りようとした人もいたが、周りに止められていた。

そのうちに放送が流れて、一番前だったか、後ろだったかの扉を開けて、はしごを使って乗客を降ろすとのことで、ようやく電車からは出られた。そのまま錦糸町駅のホームまで歩き、改札を通って(お金を払って)出た。こんな時は改札が普通に開いているのかと思ったが、そうではなかった。

錦糸町駅を出ると街は人で溢れていて、デパートなども閉まっていたりで、行き場を失った人が多かったが、少し駅を離れると、人通りも少なく、レストランなども開いていたりして、一見平穏な日常にも見えた。

会社に連絡するにも携帯が繋がらず、公衆電話から電話をし、とりあえず、資料は届けなくていいことになり、帰宅命令が出た。

そして駅前で電車が動くのを待つことにしたが、一向に電車が動く気配はなく、どうやって帰ろうか迷った。当時は横浜に住んでいたので、錦糸町から歩くというのもかなり大変だと思い、しばらく駅前で立っていると、一台のタクシーが渋滞のなか止まっているのを見つけた。

近寄って運転手さんに乗れるかと聞くと、もうお客さんを乗せてないと言って断られた。しかし、どこに行きたいの?と聞かれたので、横浜だと答えると、たまたまそのタクシーが鶴見に帰るところだから、そこまで乗せてあげると言われて、有り難く乗せてもらった。

しかし、駅前から100mくらい進むのに渋滞で全然動かず、メーターは5000円くらいになってしまい、どうする?降りる?と聞かれたが、とりあえず、背に腹は代えられないので、もう少し乗ることにし、家族の安否を携帯で確認しようとしたが、繋がらず、気が気ではない思いをしながら、タクシーに乗っていた。

しばらくすると、電話はダメだったが、ショートメッセージなら届くことがわかり、家族とも連絡を取れ始めた。また、その時に近くに友人が住んでいた事も思い出し、その友人に連絡してみると、うちに来なよ、と快く受け入れてくれることになったので、急遽、タクシーの運転手さんにお願いして、そこに向かってもらうことにした。普段なら10分強で着くだろう距離だが、メーターが一万円を超えたところで、運転手さんが、こんな時だから、ここでメーター止めてあげるよ、と言ってくれて、2時間くらいかけてようやく友人宅に着いた。

夜中までなかなか落ち着かずにいたが、電話も通じるようになったのは、夜10時を過ぎたくらいからだったように記憶している。そのくらいの時間に会社から連絡が入り、ほとんどのメンバーは会社から出られず、会社に泊まって早朝帰ることにするので、土曜日出勤して欲しいとのことだった。当時は今のように在宅ワークなんてなかったので、何が何でも出勤しないと仕事にならないと思われており、さらに金曜日に地震で業務が出来なかった分、土曜日もやるという流れになってしまった。

テレビはその日から広告が流れなかったり、地震以外の番組が全く放送されなかったり、とにかく異常事態であった。

そんなことからもう11年経つが、未だに忘れられない一日だった。

 

 

 

勉強について

さて、いよいよ桜の季節に近づき、卒業や入学のシーズンになる。そこで、よく色んな人が、何故勉強をしないといけないのか?という問いの回答をしているのを耳にする。

子どもに勉強しなさい!とだけ言うのも芸がないので、ざっと私なりに勉強の必要性を考えてみた。

 

①学歴が大事だから、いい大学に入って、大学名で信頼を得る生き方ができるようになるため。

多分、これが最もいい回答で、現実的だと思う。やはり、日本だけでなく、学歴は世界どこへ行っても聞かれるし、人物の能力を比べる上で重要なファクターであることは疑いようもない。最近は、学歴を気にしないという人や企業も見かけるが、その分審査は大変になるし、それが一般的になるかは微妙である。どの大学の、どの学部または修士課程を卒業したかによって、その分野の能力というのはある程度分かるが、それを隠した状態で、その人の能力を測ろうとすれば、それはかなりの労力が必要になるからだ。よって、学歴である程度、判断するというのは合理的だったりもする。

②勉強を通じて、文字の読み書き、計算ができたり、過去を知ったり、社会を知ったり、音楽や体育などを学ぶことが出来る。

これは、個人の能力を高めるという意味でとても重要であり、勉強をしなければ得られないものであるから、やはり勉強をする意味になる。よく学校で学ぶことなんて社会では使えないという意見も耳にするが、それは使おうとしないことが原因であり、使い道は多々ある。文字の読み書きが出来れば、たくさんの本を読むことも出来るし、人に何かを伝える際に文章できちんと伝えられる。過去を知れば、未来も分かるようになるかもしれないし、何より考えることができる。音楽や体育では、その道に進むこと以外にも趣味としても楽しめるようになれば人生の幅が広がる。そんなこと、学校で習わなくても出来る、というのは一理ある。しかし、それをもし個人的にやろうとすれば、まず家庭教師をつけるにしても、通信講座を受けるにしても、お金がかかる。幸い日本は中学校までは無料で受けられるわけで、これはとても有り難いことだ。

③試験などを経験することで、努力をすること、競争することなどを学べる。

勉強というのは単に自分だけのものではなく、他人との競争の材料にもなる。これも賛否両論あって、学問で競争するのはおかしい、受験戦争は子どもをダメにするという意見もあるが、確かに過度な競争で子どもが疲弊し、勉強以外のことが出来なくなることは問題だが、これは勉強とか、受験が悪いわけではなく、何にでも当てはまるように、過ぎたるは及ばざるが如しということであり、受験戦争が悪いわけではない。私は受験よりフェアな戦いはなく、ボランティアで加点されたり、流行りのAO入試(内容にもよるが)などの方がよっぽど不公平に思える。貧乏だろうが、なんだろうが、とりあえず一生懸命勉強すればいい大学には入れて、いい教育が受けられるシステムの方がよほど健全だと思う。

④人生というのはずっと勉強の連続だから。

学生時代は先程から書いているように、定期試験や受験などが目標になって勉強をするだろうが、実は社会人になっても勉強は続く。会社に入ればその道の勉強が必要になる。会計の勉強だったり、語学の勉強だったり、科学だったり、または資格を取るなど、とにかく勉強の連続で、学生時代の勉強した経験というのが、とても重要になってくる。勉強に慣れていないと、なかなかいきなり勉強するのは難しいものである。何故なら、勉強のスタイルというのは人によって違い、自分はどのように勉強したらいいのかなど、分かっている方が断然早い。

⑤騙されない。

これが実は一番重要かもしれないが、今後、個々人が受け取る情報量は、これまでに比べて増える一方になるはずである。よって、情報の真偽も然ることながら、情報の受け取り方や活用の仕方も、勉強によってある程度基礎知識がある人とない人では、その処理能力に大きな差が出る。よって、騙されないというのは、単に詐欺に遭わないということだけでなく、それが例え正しい情報であったとしても、間違った方向に導かれたり、または変に洗脳されてしまったり、人生を棒に振ることすら考えられる。もちろん、それは勉強だけで回避出来るものばかりではないかもしれないが、少なくても勉強は役に立つはずである。

そして、ここまで書いてみて、子どもにどう伝えるのか悩ましい。簡潔に、そして的確にこれらのことを伝えるにはどうしたらいいのか。

小学生向けなら、大きくなるためにたくさんご飯を食べて、運動して強い身体を作ることも大事だけど、頭も鍛えないといけないんだ。頭を鍛える方法は色々あるけど、勉強はとてもいいから、運動するみたいに勉強も頑張ってみて!くらいだろうかと思う。中学生や高校生になれば、きっと上記のような細かい話も理解出来るようになるはずだ。