3.11について

また今年もこの日を迎えた。我々日本人にとって、決して忘れる事の出来ない日となった。幸い私は関東だったので、東北の方々に比べたら、被害としては極めて微小ではあったが、それでも仕事や生活がこの日を境に、ガラリと変わったのを覚えている。

色んな方の話をこれまで聞いてきた。壮絶な経験をした人もいれば、明るく乗り切った人もいたり、場所だったり、状況だったり、その人の性格だったりで、この日の持つ意味が人それぞれ違っていて、とにかく分かったことは、3.11の話はみんな色々なエピソードを持っていて、自分なりの3.11があるということ。

よって、自分はどんな3.11だったか、紹介してみたいと思う。

この日は朝から大慌てであった。というのも、この日までに客先に出さないといけないレポートがあり、遅れたら支払いしないとまで言われていたものだった。本来なら一週間前に終わっていないといけないものが色々あって遅れていて、客先もかなり怒っていた。

入社ニ年目で右も左も分からない状態だったが、先輩たちが焦っているのも分かっていたし、自分も必死に資料をまとめていた。

そして金曜日だったこともあり、郵送では間に合わないというので、書類をもって千葉県にいる客先まで私が届けることになった。

会社を出て、電車に乗り、錦糸町駅を超えたあたりの橋の上で、急に電車が止まり、車内は騒然となった。

地震があったらしい、と話し出す乗客。しばらくして、携帯電話でテレビを観れる人が何人かいて、その人のところにみんなが集まり、ニュース速報を観て驚いた。その後2時間か3時間か、ずっと車内に閉じ込められたままで、疲れて果てた。中にはドアを壊して開けようとしたり、窓から降りようとした人もいたが、周りに止められていた。

そのうちに放送が流れて、一番前だったか、後ろだったかの扉を開けて、はしごを使って乗客を降ろすとのことで、ようやく電車からは出られた。そのまま錦糸町駅のホームまで歩き、改札を通って(お金を払って)出た。こんな時は改札が普通に開いているのかと思ったが、そうではなかった。

錦糸町駅を出ると街は人で溢れていて、デパートなども閉まっていたりで、行き場を失った人が多かったが、少し駅を離れると、人通りも少なく、レストランなども開いていたりして、一見平穏な日常にも見えた。

会社に連絡するにも携帯が繋がらず、公衆電話から電話をし、とりあえず、資料は届けなくていいことになり、帰宅命令が出た。

そして駅前で電車が動くのを待つことにしたが、一向に電車が動く気配はなく、どうやって帰ろうか迷った。当時は横浜に住んでいたので、錦糸町から歩くというのもかなり大変だと思い、しばらく駅前で立っていると、一台のタクシーが渋滞のなか止まっているのを見つけた。

近寄って運転手さんに乗れるかと聞くと、もうお客さんを乗せてないと言って断られた。しかし、どこに行きたいの?と聞かれたので、横浜だと答えると、たまたまそのタクシーが鶴見に帰るところだから、そこまで乗せてあげると言われて、有り難く乗せてもらった。

しかし、駅前から100mくらい進むのに渋滞で全然動かず、メーターは5000円くらいになってしまい、どうする?降りる?と聞かれたが、とりあえず、背に腹は代えられないので、もう少し乗ることにし、家族の安否を携帯で確認しようとしたが、繋がらず、気が気ではない思いをしながら、タクシーに乗っていた。

しばらくすると、電話はダメだったが、ショートメッセージなら届くことがわかり、家族とも連絡を取れ始めた。また、その時に近くに友人が住んでいた事も思い出し、その友人に連絡してみると、うちに来なよ、と快く受け入れてくれることになったので、急遽、タクシーの運転手さんにお願いして、そこに向かってもらうことにした。普段なら10分強で着くだろう距離だが、メーターが一万円を超えたところで、運転手さんが、こんな時だから、ここでメーター止めてあげるよ、と言ってくれて、2時間くらいかけてようやく友人宅に着いた。

夜中までなかなか落ち着かずにいたが、電話も通じるようになったのは、夜10時を過ぎたくらいからだったように記憶している。そのくらいの時間に会社から連絡が入り、ほとんどのメンバーは会社から出られず、会社に泊まって早朝帰ることにするので、土曜日出勤して欲しいとのことだった。当時は今のように在宅ワークなんてなかったので、何が何でも出勤しないと仕事にならないと思われており、さらに金曜日に地震で業務が出来なかった分、土曜日もやるという流れになってしまった。

テレビはその日から広告が流れなかったり、地震以外の番組が全く放送されなかったり、とにかく異常事態であった。

そんなことからもう11年経つが、未だに忘れられない一日だった。