仕事は暇つぶしについて part3

まず始めに、仕事をしていると、 自分の居場所というものが確立される。ここで言う居場所とは、 物理的な居場所と精神的な居場所の二つである。 まずはわかりやすい物理的な居場所について書いてみたい。 例えば、東京には数多くの建物があり、それらは例えば、 どこかの会社の事務所や警察署、国会議事堂、野球場、 皇居と書き続けていけばそれだけで文章が終わってしまうくらいたくさんあるが、 そのなかで自分が入れる場所というのは限られている。 どこかの会社の事務所だって、IDカードがないと、 またはそこの誰かに許されないと入れない。 野球場は観客席ならお金を払えば入れるが、 ピッチャーマウンドに立つにはレギュラーの座を得てからしかできない。つまり、そういう場所に入れるのが多くの場合、 仕事をしている人だけなのである。国会議事堂であれば、 国会議員になれば入れるし、 または国会議事堂の椅子を手掛ける職人だったり、 清掃員だったり、そういう仕事を持っていると、中に入れる。 そこに居場所が用意されるのだ。仕事をしていると、 そういう体験は、大したことのないこと、 または当然のことにように思えるが、 ふと仕事がなくなったときに今まで当たり前のように入っていた場所に入れなくなったりすると、 そういうことを実感するのかもしれない。 よく戦力外通告を受けたプロ野球選手なんかが、 もう二度とあのマウンドに立てないんだなんて悲しそうに言うが、 まさにそういう心境なのだろう。サラリーマンでも、 辞めた会社の事務所には二度と入れない。 今まで何度も行っていた出張先でさえ、もう行けないのである。よって、仕事がなければいけない場所に行けることになったり、 入れない部屋に入れたり、そういう機会が与えられることは、 まずとても面白い。レストランの調理場には普通入れないが、 皿洗いの仕事をすれば入れる。アフリカの辺境の地だったり、 国家機密の場所だったり、最先端の技術、工事現場、 どこでも仕事であれば、みんな入れてくれる。 仕事に夢中になっていると、そういう場所に入れていることに、 何の有難さなんか感じない、 むしろ入りたくもない場所にもなるのだが、 物理的に居場所があるということ、 行く場所があるということは非常に有難いことなのであり、普段入れない場所に入れるのはとてもいい経験になる。 例えそれが、自宅であったとしても、仕事のために家にいるのと、 ただ家にいるのとでは、 自分の精神状態や他人の目からも全く違ったものになる。

次に、精神的な居場所があるということである。 それは人とのつながりである。どんな仕事をするにしても、 人との関わりは避けられない。関わる人の数こそ、 仕事によって違えど、人にお願いされ、人にお願いし、 助け合いの中で、人は仕事をしている。その助け合い、 支え合いこそ、醍醐味なのである。 当然それは他人から感謝もされるし、尊敬されたり、慕われたり、 認められるということがある。逆に怒られたり、 裏切られたりすることもあるが、 それもそれで仕事の醍醐味である。ここで、‘いや、 そんな仕打ちを受けることは醍醐味とは言えない、 ただ辛いだけで場合によっては死を選ぶことだってあるので、 やはり仕事は辛い’という反論もあると思う。しかし、 僕がここで書いているのは仕事が辛くないということではなく、 暇つぶしであると言っているのである。よって、 頼られることはもちろん幸せで嬉しいことであるが、 それと同時に怒られることも、 暇つぶしの観点からすれば同じように暇を潰している瞬間なのである。まず、このように人との関わりを持つこと、 その関わり自体が精神的な居場所である。そして、 その関わりから生まれる一喜一憂こそ大事であり、 仕事が精神的な居場所が与えられていることの証明になる。 月並みな言い方をすれば、楽しい時間は辛い時間によって、 より輝きを増すわけであり、辛いことは楽しいことの前兆である。 そして、いくら物理的な居場所を与えられても、 このような精神的な居場所(人との関わり)がなければ、 やはり暇つぶしとしては片手落ちになる。辛さも醍醐味として、 暇つぶしの観点からは重要なファクターであることを強調しておき たい。また、人との関わりについて、もう少し詳しく書きたいが、 仕事を通じて出会える人というのは、 仕事がない状態では出会えない人にも会わせてくれる。まず、 おおきなことから言えば、 自分が大企業の社長になれば総理大臣に会う機会もあるかもしれないし、医者になれば大女優の診察をするかもしれない。 俳優になれば、大物ロックスターと会えたり、 仕事は交友関係も大きく変える。 みんな仕事だから会ってくれるという人ばかりなのである。

このように、物理的、または精神的な居場所があること、これは暇つぶしには最適なのである。

 

次に、仕事をしていると、給料が発生する。 多くの人は仕事を給料(お金) のためにやっていると思っている人がいる。 その人はお金の本質をわかっていないのかもしれない。お金とは、 あればあるだけいいものではない。お金とは、 たまたまお金を持っているから使うものであって、 お金がなければ使わなければいいという存在なのである。 この話は貨幣制度が生まれて、 もともと物々交換をしていた頃からの話に遡る必要があるので、 詳しくは書かないが、簡単に書けば、 お金はなければ使わなければいいものであり、 本来必要なものではないのだ。つまり、 お金のために働くという姿勢は間違っていて、 そういう動機で働くからより辛くなるのである。 お金を稼ぐことが義務になってしまうと、 それに紐づいて仕事も義務になる。そして、 人間は義務という言葉に弱い。働いてもいいよ、 と言われれば働きたくもなるが、 働かないとだめだと言われると急に辛くなる。つまり、 仕事が辛いと悩む人の多くは、お金が絶対必要→ 仕事をしないとお金がない→仕事は義務→ その義務感のなかで嫌なことが発生→辛いけど、逃れられない、 というものではないだろうか?まず、基本に立ち戻り、 こう考えてみることにする。まず仕事は暇つぶしのためであり、 お金のためではない。ただ、世の中は助け合いの世の中で、 仕事は自分の能力を生かし、誰かを助けるためのものであるから、 まず助けてほしい人を探す。これが就職活動であり、 起業活動でもあり、仕事を見つけるということである。そして、 助けてほしい人はたいてい、それに対価を払うことにしているが、 それがお金であることがほとんどだが、お金ではないこともある。 そして、 人生とはその自分の能力と対価のバランスで得たもののなかで暮らすというシンプルなものである。つまり、 より多く対価を求め無理する必要もなく( つまりお金は必要以上に持つ必要がないため)、 逆に自分の能力を安売りし、 必要な対価をもらえないことを続ける必要もない。 お金に対する考え方と、 自分の能力と対価についての考え方を変えることで、 仕事と人生は充実する。お金のための仕事ではなく、 暇つぶしのための仕事であり、それによって得られる対価、 お金のなかで暮らすことを考えるというのが本来のあり方であるように思う。暮らし方に工夫をすれば、 お金を大量にもっている必要はないし、自分の能力を吟味し、 それを必要としている人を探せば、対価はそれなりに得られる。 どうも日本人の不得意分野は、横並び教育の弊害かもしれないが、 自分の能力の見極めであるように思う。 そしていつの間にか仕事というのは、 奴隷のような働き方をすることであることにように錯覚する。 今は、インターネットも発達し、 世界にもチャンスを見出せる世の中なので、仕事、能力、 対価の関係について見直すいい機会かもしれない。ただ一点だけ、 今回の主旨とは少し違うかもしれないが、 自分の能力を高めることや市場が何を求めているのか、 という部分の考察、調査、 そしてそれを形にしていくことの努力は必要に思う。たとえば、 自分は歌が上手くても、 自分よりうまい人がたくさんいれば歌う必要はないだろうし、 世の中にイノシシを狩る人がたくさんいて、 魚を釣る人が誰もいなければいくらイノシシを狩るのが自分のなかで一番得意な仕事でも、魚を釣るべきだろうし、このあたりを見誤り、 いつまでもイノシシを狩っているようでは、能力の安売りになる。 このあたりの簡単な原理ですら、 複雑化した現代では見えなくなっているように思う。居場所をもらいながら、お金ももらい、生活の基盤ができるので、単なる浪費にならない仕事は、暇つぶしには最適である。

 

最後に、仕事には必ず目標があるということである。 経営をやっている人であれば、売り上げ目標とか利益の目標、 開発をしている人であれば、製品の開発の日限や性能の達成、 野球選手ならホームランの数や勝利の数、などとりあえず、 どの仕事においても目標があり、 それに向かって日々努力をしている。 これも仕事のすごいところであり、一日たりとも、 仕事に出かけている以上、目標は与えられ続ける。つまり、 いくら物理的、精神的な居場所があって、 それに対し対価がもらえても、目標がなければ、退屈である。 ある種の目標、またはノルマのようなものがあると、 それに向かって、仕事をすればいいので、 とても暇つぶしには適している。なぜなら、 それに向かって懸命に働くことで、時間を忘れられるからである。 むしろ、 目標によっては時間が足りないなどという嬉しい悲鳴も上がるくら いである。すると今度は、‘ そのようなノルマに押しつぶされそうになり、精神的に辛く、 とても嬉しいなどとは言えない’ などという反論もあるかしれない。しかし、 その原因は以下の二つのどちらである。一つ目は、 その仕事が自分の能力に合っていない、 または能力が足りていない、或いは過剰な要求になっている。 二つ目は、そもそもそれが普通の状態であり、 自分だけが辛いと思っているというものである。 このどちらにしても、上記のようにまずは、仕事、能力、 対価の関係を他人の例や別会社の例などを参考にし、比べてみることだ。前者であれば、その仕事を辞めればいいし、 後者であれば耐えるか、もし耐えられなければ、 仕事自体ができないということになるので、 他の暇つぶしを探すしかない。 仕事以外の暇つぶしは本当になかなか見つからないと思うが。

目標を追っているうちにどんどん時間が過ぎていくので、やはり仕事は暇つぶしには最適である。

 

こう考えてみると、仕事というものの素晴らしさの一端がわかる。 まず、仕事がなかったらやりたいと思うことのほぼ全てが、 仕事ほど長く続けられるものではない。平均的にだいたい20歳か ら仕事を始め、60歳で辞めるとすれば40年間は暇を持て余すこ とはない。しかし、仕事以外で40年間埋めろと言われれば、 なかなか至難の業である。例えばそれが、 一週間であったとしても、それは困難であり、 仕事以上に自分を突き動かす何かに出会う人は少ない。そして、 それが一ヶ月、一年となれば、廃人のようになっていき、 十年間も仕事なし状態を続けられる人はほとんどいないであろう。しかし、 仕事があればどうだろうか?大半の人が四十年間何かしらの仕事をし、 続けている。仕事のすごいところは、仕事をしている時間は、 40年間ほぼ一日たりとも、目標を与えられない日がない。 毎日毎日、問題があり、解決しなければならないことがある。 これは本当に不思議なのだが、全く人を飽きさせないというか、 休ませない。これに疲れて、 肉体的にまたは精神的に病んでしまう人もいるので、 あくまでも程度問題だが、思うことはやはり、 こんな長い間人々に目標を与え続け、挑戦させ、 時間を忘れさせるものは仕事以外ないのではないだろうか? 仕事をやっていると、先ほども書いたように、 どんどん問題が見つかる、出てくる、与えられる。そして、 単純に乗り越えられるものもあるが、多くの場合、 その目標というのは実力よりも少し高いものが多く、 時に必死でやることで乗り越えたり、 時には何か新しい方法を考案して乗り越えたり、誰かに頼んだり、 そもそも目標を変えたりもしながら、 とりあえず解決していくことが仕事である。そして、 重要な点はどこかと言えば、 時間を忘れさせてくれるという点である。 これこそ究極の暇つぶしである。 最も優秀な暇つぶしに求められているものは時間を忘れさせるとい う能力であり、仕事のなかでは一年、 二年という単位がいとも簡単に過ぎていく。 それは年を取ったせいだとも言えるかもしれないが、 もしそう思ったら、思い切って例えば一ヶ月でも仕事を休んで、“ 暇な”時間を作ってみるといい。一日というのは意外に長い。 一分とか五分という単位でさえ、何もしなければ長い。