いじめについて

オリンピックの話題のなかで、いじめ問題も随分、大きく取り上げられたので、コメントをしたいと思う。

いじめとは、いじめる側が100%悪いのであって、いじめられる側にも問題があるなんて事は多くの人が考えてはいないだろう。もちろん、私もいじめられる側に問題があるから、いじめられても仕方ないなんて決して思わない。

しかし、これだけ多くの人がそう思っているにも関わらず、学校でのいじめは一向になくならず、教師が止められなかったことを責められるケースも後を絶たない。私は学校というのは社会の縮図になると考えている。何故なら、子どもたちは、親をはじめとする大人の姿を見て育っているからだ。

つまり、学校でのいじめがなくならない原因は、大人が社会でいじめをしているからなのではないか?と考える。

例えば、社会には多くの富を独り占めする人がいる。しかし、逆に全くお金を持たず、食べ物も、服も、家もない人もいる。努力したから当然お金持ちになる資格がある、貧乏人は努力不足だと資本主義の中ではそういう論調がある。だから、頑張って勉強しなさい、とか、スポーツなり、音楽なり、何か人より優れたものを持って、仕事をして生活に困らないようにしなさい、と教えられる。つまり、努力をしなければ、貧しい生活を強いられることは当然だと、そう聞こえなくもない。しかし、実際にはいくら努力をしても、それ以上に努力をしている人がいれば、競争に負ける。何を言いたいかと言えば、みんながみんなとても頑張ったとしても、必ず勝者と敗者が生まれるということなのである。そして、それが先鋭化してくれば、限られた勝者が富を握り、残りをみんなで分けるという構図になっていく。そして、敗者は努力不足というレッテルを貼られ、不自由な生活を送ることは、その人自身に原因があり、助ける必要はないと見なされる。もちろん、日本にはそういう人達を助ける制度はあるし、すぐに命を失うということはないにせよ、子どもの目から見れば、明らかな差を感じるだろう。

また、少し毛色は変わるかもしれないが、不祥事を起こした人へのバッシングの嵐である。もちろん、罪を犯した人がそれなりの罰を受けるということは、法治国家である以上、当たり前のことである。しかし、逆に言えば、法の下で罰を受ければ、基本的にはそれで終わりなはずだが、殊に芸能人などになると、連日テレビなどで袋叩きとも言える仕打ちを受け、時には再起不能になるまで叩き潰すコメンテーターが出てくる。それは、安全な場所から弱りきった人を痛みつけるまさにいじめの構図に見える。そして、不祥事を

起こしたのだから、いじめられても仕方ないと、連日辛辣な言葉を投げかけられる。

また、同調圧力も日本にはまだまだ残っている。人と違うこと、常識やしきたりに従わない者は村八分にされて当然だという風潮。私自身もよく変わり者として生きてきたので、その風潮にはいつも苦労してきた。よって、子どもの目からも、何か違う人がいれば、それを指摘し、そしてだんだんといじめることに繋がっていくことは容易に想像できる。

つまり、大人の世界には、いじめが当たり前のように蔓延しており、それを是正しない限り、子どものいじめも同時になくならない。

 

また、学校(小中学校)でのいじめがなくならないことの理由として、もう一つ考えられるのが、学校が多機能化し過ぎてるということもあるように思う。私は、学校や教師というものは、勉強を教える場所、人であり、それ以外は、家庭や地域の中で学べばいいのではないかと思っている。学校が多機能化すれば、子どもの世界の大半が学校になる。つまり、いじめる側もいじめられてる側も、ずっと学校にいるので、色々エスカレートしてしまう。また、学校で何か嫌なことがあれば、子どもの中で人生そのものが辛いものになってしまう。よく聞く話として、学校で嫌なことがあっても、家庭や塾などの習い事、地域の交流などの中で別のコミュニティによって助けられたという話があるように、子どもには学校以外の世界をもっと持たせてあげるべきなのだと思う。しかし、学校は勉強以外にも、生活指導、部活、行事全てが任され、教師の負担もかなりのものである。

例えば、放課後の部活は、サッカー、野球、バスケットボール、器械体操、陸上などのスポーツなどがあると思うが、それこそ学校の枠を越えて、地域でまとまって、専門家に指導をしてもらうのもいいのではないかと思う。日本は世界有数のスポーツ大国であり、多くのアスリートが存在するが、引退後の生活がなかなか出来ない人も多い。しかし、彼らの能力や経験はとても貴重である。そこで未来の子ども達を指導する機会があれば、教師の負担が下がることもあるが、より専門的に、科学的に正しい練習法などが期待できる。そして、子どもたちには学校とは別のコミュニティを提供できる。

行事もそうである。全て学校で運動会、学芸会をやるのではなく、地域の活動の一環で開催してはどうだろうか。今は昔と違い、ご近所付き合いも減ってきたと言われて久しい。しかし、なかなか改善はしていない。そこで、子ども達を通じて、地域行事として、運動会をやったり、学芸会をやることで、より地域密着の機会が得られる。学校ではどうしても、同学年や同じクラスといったコミュニティになりがちだが、地域で集まることになれば、上下の関係も増えるし、何より近所付き合いにより、何かの犯罪が防止できたり、災害時の協力体制も構築しやすくなる。遠い親戚より、近くの他人なのである。これによって、行事の準備や運営に時間を取られていた教師たちの負担が下がる。

どうしてそこまで教師の負担減にこだわるのかと言えば、やはり子どもたちをよく見れて助けられるのは、教師であるからなのだ。いじめがあるかどうか、いじめられてる生徒を助けることはもちろんのこと、結構多いのがいじめている側の生徒が心に闇を抱えているケース。そんないじめている側の心のケアも含めて、忙しい教師はなかなか手が回らないことも多いが、時間的、または精神的な余裕があれば、助けられるケースが増えると考えるからだ。これが、私の考える学校でのいじめを減らす方策の一つである。

私は、子どもの教育とは、親だけでは出来ないし、学校だけでも出来ない、やはりそこに地域も加わって、みんなで子ども(未来)を育てることで、いじめがなくなるどころか、日本全体がより強い団結を持った社会になっていくと信じている。

今、いじめ問題が再燃しているので、この機会にいじめと教育について、考えてみるのはどうだろうか。