自動車教習所について

家の近くに自動車教習所があり、近所を運転していると、いつも教習車とすれ違う。

私も学生時代に自動車教習所へ通い、免許を取ったが、改めて、この制度は日本特有だなとふと思った。アメリカでも、運転免許を取ったが、日本のような教習所はなく(運転のレッスンしてもらえるところはある)、試験に合格さえすれば免許はもらえる。インドネシアでも、教習車というのは見たことはなく、みんなどうやって運転を覚えたのかは不明だ。ただ、インドネシアの運転マナーはほとんど無法状態というべきか、とにかくひどい。逆に同じ様に教習車がないアメリカは、インドネシアと違い、意外というか、日本よりもマナーは良かったように思う。もちろん、一部にとんでもないドライバーもいるが、全体としてみるとアメリカはマナーが良かった。

こう考えると、教習所の有無と運転マナーはあまり相関がないのかなとも思うが、何故、日本には自動車教習所があるのだろうか。

これには、日本人の特性が非常に表れていると思った。

まず、日本人は何かを始める時に、基本が大事ということをよく口にする。しっかり基本を学ぶことで、その後は応用なり、改善や変革をしていくことが出来るが、まずは基本。そして、その基本の中には、丁稚奉公のようなものもあり、料理人なら皿洗いとか、野菜をひたすら切るとか、野球ならボール拾いや先輩のユニホームの洗濯などもやったり、到底、外国人が理解出来ないものもある。さらに、その後の修行で、包丁の使い方、バットの持ち方も、完全にやり方が統一されており、それをしっかりやることが基礎、基本であり、そこからの逸脱はほぼ認められない。こういうことで、日本の伝統芸能やら、伝統工芸は後世に正確に伝えられてきた。しかし、海外に目を向けると、結果から方法を考えることがメインで、例えば野球にしても、打率3割が目標なわけで、正しい打ち方が目標ではないし、捕球や送球もそうで、しっかりアウトを取れればいいので、極端なことを言えば、結果が出れば基本の動きをする必要がない、という考え方をする。

つまり、運転であれば、最低限事故を起こさないための知識と技術があれば良くて、それを試験で確認出来れば、免許を与えるという考え方である。しかし、日本はいくら試験に受かる知識と技術があっても、下積みというわけではないが、しっかり教習所に通うことが義務付けられている。それは、基本動作を全運転手が共通に身につけるためであり、伝統工芸やスポーツ、色々な世界で日本が実践してきていることと、同じ考えの元でやられていると思う。とても日本的な制度なのだ。

これは良い悪いということや、好きも嫌いも、この件に関しては特に意見はないが、教習車とすれ違う度に、日本的だなぁと思ってしまう。もっと世界を見れば、日本と同じように教習車がたくさん走っている国や地域があるかもしれないが、みんなが同じように学び、同じように運転するということが日本人の価値観に合っているのだと思う。ただ誤解しないように書くと、みんなが安全に運転出来ることだけではなく、その方法もみんなで統一しておく、というのが日本特有であり、どの国も、安全運転や交通ルールやマナーの徹底には力を入れているはずである。つまり、目標は同じでも、プロセスまで統一していくというのが、日本のやり方なのだ。

思えば、会社でもそうだなぁと思いを巡らせる。新人時代はとにかく、やり方(プロセス)を学ぶ。むしろ、その先に何があって、何のためにそれをやっているのかは見えないのだが、とにかく様々な所作を習う。次第にその先が見えてきて、最初に習ったことの伏線回収という感じだが、アメリカでは、最初から目標があり、これを達成してくれという感じで始まり、どう進めるか、などは個人に任され、結果だけを見られる。よって、極端に言えばスキルは伝承されることなく、担当が変わればまた1からスタートとなるが、仕事のしやすさ、またすぐに仕事が出来るようになるというメリットもあった。最近では、今までの日本のやり方は古いとか、非効率だとか、騒がれ始め、欧米流を取り入れようともしているが、目先の非効率が長い目で見た時にどうなのか、これがしっかり議論され、検討されているならいいが、単に目先のことばかりで考えているとすれば、それは危険だ。むしろ世界では、日本のように社員にしっかり教えることで会社への忠誠心や長く働ける環境を整えることの重要性が認識され始めており、安易に日本が欧米化することは日本にとって有益ではないかもしれない。

教習所も、会社の新人教育も、野球のボール拾いも、日本の非合理的なやり方は疑問も多いが、それが不要なのかということとは少し違うとも思っている。以前も書いたが、非合理的なことが通用する、つまり現在は非合理だと考えられていることが将来的に有効だったり、その他様々な利点があることがちゃんと受け入れられていることは、実は洗練された社会であり、逆に合理性でしか判断出来ない社会はまだ成長段階の社会なのだと思っている。

そんなことを考えながら、教習車と今日もすれ違って、陰ながら、彼らの下積みを応援している。